教育の理想を求めて

やらない理由、できない原因


指示する側の人間は、指示された人間が言った通りにやらないと腹を立てるのが、ただ、その前に考えなければならないのは、指示された者は、指示された通りにやらないのか、指示された通りにできないのかを見極める必要がある。

やってないという結果だけ見たのでは、やらない理由までは明らかにならない。
できるのにやらないとしたら明らかに抗命であり、組織のルールとして許されない。しかし、できないとしたら、それは指導不足か任命間違いとなる。
やらなかった事に対する事後の対応が真逆になる。

指示する側の人間は、指示を受ける側の人間に対してある程度の期待がある。それが自分の思い通り、言った通りの結果が出ないと期待を裏切られたという思いが働き、ついつい指示した者に対して厳しくなる。

又、指示される側の人間は、指示した者の期待に応えようとしてついつい判断が甘くなったり、自分の弱みを隠そうとする。その結果、当初は嘘をつくつもりではなかった事が嘘になってしまう事がある。この場合、指示した側は嘘をつかれたと思い。指示された側は、嘘をついたわけではなく、最初から無理な指示だったと結論づけてしまう事が往々に生じる。

故に、結果だけ見てやらなかった理由を即断する事は、原因が曖昧なままに、お互いに相手の責任にして結論づけてしまう危険性があるのである。

自分の経験からしてやらない理由の多くは、できないというと言う事である。できないと言う事が原因なら、なぜ、何ができないのかを明らかにする必要がある。

なぜ、という要素には、例えば、経験不足、技術の未熟、知識の不足、リテラシーの不足、情報の欠如、思い違い等が考えられる。そもそも、できないと原因には、基本的な事、例えば、指示命令の受け方が解らない、報告の仕方か・確認の仕方が解らないとか、手順・段取りがくめない、コミュニケーションの仕方が解らない。組織を仕切れない、組織のルールが守れない。会議の開き方、進行の仕方が解らない、礼節、しきたりの欠如、挨拶の仕方、言葉遣いが解らない等といった常識的要素が多く含まれていて、問題をより複雑にしている。しかも、今の学校では、これらの事は不用だと教育しているから始末が悪いのである。

だから、できない原因は、なぜ、何ができないのかを見極める必要がある。
なぜというのは、やらない動機であるし、何をというのは、できない事である。
やらない、できない動機、(例えば、時間がないとか、怖いとか)できない事(資格がないとか、やり方が解らないとか)によって対処の仕方が違ってくる。

組織において人を育成するための手段は、教育、賞罰、評価、異動である。
そして、各々、意欲は教育によって、能力は、異動によって、実績は、評価によって、規範、価値観は、賞罰によって矯正するのである。
正しく人を導くためには、何を指導、教育すべきなのか。どこを処罰するか。なぜ、異動するのかは、また、処罰するならどの様な根拠で何を処罰するのかを明らかにする必要がある。。その根本に、一人ひとりの人間性、人格があるからである。
指導を受ける者が納得がいかなければ、指導を受け付けないからである。

できないのは、その人ができない環境状況に置かれている事が最大の原因だと言う事である。その事を理解しないでその人の責任ばかりを追及しても何も解決できず、その人の人格を傷つけるのが関の山なのである。

決めなければならない人が決められない状況におかれて、決めろ決めろと責め続けていたら確実なその人はおかしくなる。
決められる状況にすることを考えるべきであり、そのためには、何を決めなければならないのかを見極める事なのである。
例えば、価格を交渉する時、方針を決めるのか。それとも、価格を決めるのか。価格を決めるための条件を詰めるのか。それとも価格を決める日を決めるのか。ある程度の目安を決めるのか。何を決めるのかが予め解っていないと、取り決めていないと打ち合わせまでに何を調べ、何を準備し、或いはどんな手続きをしておくべきかが解らない。そうなると仕事の段取りを決めることができないのである。

考えられない状態に置かれて考えなければならなくなるから、人は混乱する。やらなければならないのに、やることができない状況に置かれるから人は絶望するのである。

できない理由の中の大きな理由一つに、劣等感がある。
要するに劣等感が解らない事やできない事を認めさせない。又、自己を劣等感からガードしようとする事によって誤魔化したり、逃避したりすることで現実的な対応ができなくしてしまうのである。。

解らない事は、解らない。できない事はできないのである。
ところが、劣等感が強い人は、解らないと言う事、できないと言う事を認めたがらない。
解らないとか、自分ができないとかを認める事は、前人格を否定される事のように思い込むのである。
解らない事は解らない。できない事はできない。先ずそれを認める事が大切なのである。それが認められない。

なぜなら、仕事は、作業の連鎖によって成り立っていて、解らない事を解らないとし、できない事をできないとしなければ、次につながらないからである。
坂道を転げ落ちる意志に仕事が例えられるのは、連鎖的に仕事が進行するからである。仕事は次々に始まる。作業の前後が解らないと、仕事で仕事は挫折し、まとまった仕事にはならないのである。
仕事は、その時点時点で何が解っていて、何が解らないのか、何ができていて、何ができていないのかの確認によって成り立っている。
故に、解らない事、できない事が認められない結果、次に、何をして良いのか解らなくなってしまうのである。

後先を考えずに仕事をしても仕事は続かない。

例えば、来週の日曜日に野球を仕様と決めただけでは、日曜日まで何もしなければ、野球はできない。物事は、決めただけで実現できるわけではない。ところが、決めてしまえば後は誰かがやってくれると思い込んでいる者がいる。

できない理由の一つに何から、どの様に始めていいのか解らないと言う事がある。
この点が解らないと開始できない。何も始まらないのである。だから始末が悪い。
我々はよく仕事は鰻のようなもので尻尾を掴まえようとするとヌルヌルと逃げていく。仕事は頭を抑える事が肝心なのである。

導入部分と完了部分を作り込んでおくと大体仕事の形は様(さま)になる。
何事も最初が肝心、又、終わりよければ全て良しなのである。ハッピーエンドに仕事は組むのである。
始まりと終わりが決まらないと仕事の全体像をイメージする事ができないのである。
仕事の構想が練れない。

始まりはなるべく形式化しておくのが要領である。我々は、自分なりの形を作っておけと教えられた。団塊の世代は、形式主義と世の中のあらゆる作法を排除してしまったが、その結果苦しんでいるのは、次の世代である。なぜなら、団塊の世代は、形を否定したけれど体が覚えていて無意識に動けるけれど、次の世代は、躾さえしてもらえなかったからである。

教育というのは、良い習慣を身につけさせる事でもある。つまり、躾である。

形式には力がある。だから、形式によって封建主義、独裁主義を吹き込む事は可能である。だからといって形式を封建的だと否定するのは短絡的である。民主主義も、自由主義も形式によって浸透させる事ができるのである。

また、指示者の考えや真意が受け手に正確に伝わっていない場合や、指示者自身が自分の出した指示の真意を理解していない場合もある。
指示者の意志や考えが正確に伝わっていない、真意が理解されていない場合などは、如何に、指示者の考えや真意を理解・浸透させるか、単に、指示を受ける者だけでなく。関係するもの全てに指示者の意図や真意を浸透させておく必要がある。

指示者の意図や真意を浸透させる手段は、儀式であり、宣伝であり、教育である。
なぜ、儀式や教育をするのか、儀式や宣伝、教育の働きを理解しないでただ形式だと否定するのは愚かである。
状況によっては、儀式やイベントなどの情宣活動を総合的に考えなければならなくなる場合もある。
又、評価制度や報奨制度と言った範囲、制度改革にまで及ぶ事もある。

やらない理由は、指示者自体にある場合もある。
一例が、指示した者が、指示の内容や目的をよく理解していない場合である。
特に、上位の者の指示命令を引き継いだ場合、指示命令の真意を理解していない事よくある。
ただ、指示した者が自分の指示した目的や内容を解っていないなどと言う事も多々ある。
また、指示内容が指示を実行するための要件を満たしてない場合が多々ある。
よく見受けられるのは、責任者を明らかにしていない事や日限を指定していない事である。

何をどの様にすべきなのか。何をどの様にすべきかの問題であって、それに結びつかなければ何の価値もない。
そのためには、指導的立場にある者は、目的をしっかり理解しておく必要がある。
ところが、指示者が指示した目的を理解してなかったり、履き違えしている場合もある。
そうなると指示通りか否かなんて初っぱなから問題にならない。
指示した者が指示した理由が分からないのだから。

例えば、料理の作り方を聞いてこいと言っているのに、味をきいてくる者がいる。
作業は目的に制約を受ける。

実質的目的は、前後左右の作業を見ればわかる。
結果は、行為に制約され、行為は動機である実質的目的に基づいて為されるからである。
言葉や信号によって出された指示は名目的指示である。
名目的目的から実質的目的が乖離してくると予定や計画は有名無実化し指示は効力を失う。
こうなると指示されたことをやらないというよりできないのであるが、指示した者から見ると逆らっているとしか見えない。そして、個人攻撃を始めると収拾できなくなる。

予算は、予算を立てる事が目的なのではなく。予算を立てる過程で如何に事業の思想考えを浸透させるかが、本来の目的。だから、過程が重要なのである。
それを取り違えると予算を立てる事で燃え尽きてしまう。
下手をすると予算を立てることが目的化してしまう。

予算は、予算を立てる者が予算を立てることの意義や目的をしっかり理解しておくことが前提となるのである。
その上で、如何に予算を立てる目的を予算を立てる者に浸透させるかが予算の実効力を制約するのである。なぜなら、予算は指標、目安、手段に過ぎないからである。予算を目的化するのは愚かである。

以前、タクシーに乗った時、タクシーの運転手が一番厭な客は行き先を言ってくれない客だと言っていたのを覚えている。
タクシーの運転手は、最初に目的地を明らかにしてもらわないと目的地までの道筋を段取る、設計することができないのである。
以前、元プロ野球の選手である衣笠が打撃を安定させるためには、打撃に入る直前のフォームを安定させる以外にないと講演していた。
この事は、仕事でもいえる。何事も最初が肝心なのである。最初にどこまできちんとセットできるかで仕事の成否は決まる。
そのことを理解していない者はいつまでたっても仕事を覚えられないのである。

できないからやらないのか。できるのにやらないのか。できないのにやるのか。できるからやるのか。
また、順番を逆にしてみると、やらないからできないのか。やらないからできるのか。やるからできないのか。やるからできるのか。これも問題なのである。

単に、自分の思った通りの行動をしないと怒ってみても問題の解決にはならない。
大体、指示した者が、自分が指示した事の目的や真意を理解していない事さえある。というよりも多いのである。

質問するのは、指示された側の権利で、質問に答えるのは、指示した者の義務である。
指示された者は、指示された事を実行できる状態にする必要がある。
故に、指示された事を実行できるように必要な要件を満たさなければならない。
必要な要件を満たすのは、指示した側の責任である。
故に、質問するのは、指示された側の権利であり、質問に答えるのは、指示した側の義務なのである。

やる気の有無は、言われたことや決められたことを実行できる状態にしようとしているか、否かによって判断された。

また、できない人の中には、過去の経験に囚われている人もいる。

おもしろい事に、人は、経験に固執する傾向がある。
例え失敗経験で同じ事を同じように失敗する事が解っていても、経験した事がない事をするよりも過去に経験した方を選択して、同じ事を同じようにして失敗する。そして、何回でも同じ事、同じ処で失敗する事が解っているのに同じように失敗して叱られるのである。
それを是正するためには、正しい過程を経験させる事が一番効果的なのである。
特に、仕事を最後までやり抜いた経験がなかったり、一部の仕事しかしていない人は、一つの過程を貫いて推測することができない。そういう人が過去の経験に囚われると断面的な仕事しかできなくなる。

一番危険なのは、やらない理由、動機が行動規範にまで及んでいる場合である。単に、強制されたからとか、誰かが反対しなければならないと思ったからとか、正当な理由なくして指示に従わない場合である。その場合は厳正に処罰しなければならない。

指示、命令にあからさまに反抗し、抵抗する事が善だとする者が現れ始めている。
しかも、教育の現場で増殖している。

今日、学校では、強制、強要は悪い事と教えている。その延長線上で指示、命令は、強要で強制だから悪いと決めつけ、指導している。それが、行き着いた先に、予鈴終礼も悪い。始まりの号令は言語道断だとなくしてしまった事である。
指示、命令は悪だとするのは、基本的に組織を認めない事であり、無政府主義である。
今日、強制・強要が悪いとするのは、特定の個人や勢力が私的な暴力によって強制、強要する事は基本的人権を侵害する行為を誘発するから、悪いとして、正当な手続きに基づいて制定された法による強制、強要に置き換えていると言うだけである。それが法治主義である。強制強要のない法は効力を持たない。
因みに、共産主義国は、一党独裁を国是とし特定の勢力による強制、強要は是であるとしている。

強制強要をまったく認めなければ、社会、組織は成り立たない。ところが、現代の学校教育では、強制、強要は悪だとめつけ、生徒を指導しているために、強制される事、強要される事を本質的に受け付けない、最悪、生理的に受け付けない者がいる。
この様な者は、社会や組織に深刻な悪影響を及ぼしている。
組織では、正当な理由なくして指示・命令に従わない事は許されない。
この点を社会常識として植え付けておく必要がある。

集団は、全体と部分からなる。
個人にとって全体を何とし、部分を何にするかが大切なのである。
集団にとっても何を全体とし、何を部分とするかが鍵を握ることになる。
全体とは、個人であったり、家族であったり、会社で会ったり、組織で会ったり、国家であったり、世界であったり。
部分は、個人であったり、家族であったり、会社で会ったり、組織で会ったり、国家であったり、世界であったり。全体であるか、部分であるかは、視点・目的によって変わってくる。相対的なのである。

個人的意志決定は、内面の規範に従い、集団的意志決定には、外的規範が働いている。
最も価値観と行動規範に影響を及ぼすのは、自己の内面の規範と自己の外部にある規範である。

集団には、やらせなければならないという意志が働く。やらせなければならないは、やらせられているという意識を生み出し。また、組織は、やらねばならないという意志によって動かされる。

自分が何をしたいのか。自分が何をやりたいのか。自分が何をやろうといているのか。自分が何をやり遂げようとしているのかが解っていない。
これは、ユーザーも、指示者も、指導者も解っていない。

極端に言えば、自分は、何がしたくて生きているのか、どんな生き方がしたいかが解っていない。当人が解っていない。

社会的規範や、法等は、やらなけばならないという強制力を持っている。
やりたいことが許されずに、やらなければならないことを強要される。
それが続くと無力感に襲われ、諦めに囚われる。
それが昂じる自分の内面を隠し、外面を粧うようになり、いつの間にか自分の本心を見失うことになる。
自分の本心を見失わないためには、自分が何をしたいのか。自分がどんな生き方をしたいのかを確固たる信念にしておく必要がある。
その上で従うべきか、従わざるべきか。やるべきか、やらざるべきかを見極める必要があるのである。

気をつけなければならないのは、最終的にやるかやらないかの判断を促すのは感情である。決断は理性的に為されるものではない。決断は感情的に為される行為である。
なぜならば、いくら論理を極めても決断には必ず幾ばくかの不確定要素が入るからである。故に、決断は論理的な飛躍がなければできない。
だからこそ、第一感を研ぎ澄まさないと決断はできなくなる。
決めてから考えるのであり、考えたら決められなくなるのである。

団塊の世代は、何かというと自主性、個性の尊重と良い、自由放任主義を礼賛する。
しかし、ルールも知らない子供達を集めて何も教えずに自発性に任せたら野球ができるかと言ったらできるはずがない。それを野球ができないのは、子供達に意欲がないからとか、能力がないからといったら酷な話である。
最低限のルールややり方を教えておくから黙っていても野球ができるのである。
しかも成長や経験に、能力に応じて指導する必要がある。
何も教えずして馬鹿にするのは残虐である。

ただ、自主性とか本人の意思を尊重しなどと言って何も躾けないのも問題だが、逆に、人格や価値観に手を突っ込んで強圧的に自分の思い通りに操ろうとするのも危険な事である。



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