H 躾(しつけ)

 成人式が、くるたびに、新成人のマナーの悪さが問題なる。しかし、その話になるたびに、ちょっと待ってくださいよ。話がおかしいよと思う。だってそう言う風に育てたのは、あなた方でしょ。マナーの悪さは、戦後教育の成果ですよ。

 頭では解っているんだけれど、体がついていかない。体が動かないという事がある。逆に、何も考えていなかったから、闇雲に行動してしまうという事もある。頭で解っているだけでは駄目。かといって、体ばかり鍛えても、頭がついてこれないのでは、何もならない。頭と体の両方がバランスして、はじめて役に立つ。しかし、頭と体の両方をいっぺんに鍛えることはできない。いっぺんに覚える事はできない。だから、形で覚えるのである。その形が、作法であり、行儀であり、躾である。
 故に、躾は、姿形、即ち、姿勢が大切なのである。行儀作法というのは、日常的な挙止動作を、洗練し、様式化したものである。ある種の決め事である。だから、これが絶対だという形ではない。一種のお仕着せである。お仕着せというと、何か、悪い印象がある。お仕着せが悪いのは、相手の意志を無視した時である。
 礼儀や作法が形である以上、それが美しいかどうかが、問題なので、どうしても、言葉でなく、態度行動で示すことになる。それが、結果的にお仕着せになってしまうことがある。理屈で説明ができないが故に、お仕着せなのである。この点を理解しないと、なぜ、お仕着せになるかが解らない。ただ、強制されたように感じるのである。

 お仕着せや形式は、悪いと決めつけられたら、行儀作法は、最初から教えられない。戦後の教育では、お仕着せや形式は、自由主義に反するからいけないという風に教え込む。教え込むくらいだから、自分達も、行儀作法は、学校で教えては、いけないと思っている。
 行儀作法は、様式美である。

 人と人との関わり方を不文律として形式化したものが礼儀であり、作法だとしたら、礼儀や作法は、人と人との関わり方を整える。それによって人と人との関係には、一定の秩序が余れ保たれる。このような、礼儀作法の否定は、秩序の否定なのである。

 価値観は、善悪の一つだけではない。真偽、美醜もある。そして、日本人の価値観で、善悪よりも重視されるのは、美醜である。だからこそ、日本人は、礼儀作法を重んじ、礼節の国とまで言われたのである。

 躾ができていないから、引き籠もりが生まれるのだと、誰も思っていない。礼儀作法というのは、日常的な挙止動作を様式化したものである。つまり、普段日常での人との付き合い方、人間関係を形にしたものである。そうした一連の動作を形にする事で、その場、その場で悩んだり、迷ったりしなくても良いようにしているのである。確かに、覚えるまでは、大変だが、一度覚えてしまうと、人付き合いが楽になる。
 日常的な挙止動作であるから、一つ一つの動作に意味はない。丸暗記するしかない。こういう時は、暗記は必要である。

 礼儀、作法は、学校では教えない。しつけは、学校ではしてくれない。しかし、親が一番、求めている者は、礼儀、作法でありしつけである。そして、それは、思想的なものである。一つ一つの動作には、意味がないが、それが、組み合わされて一つの全体を形成すると意味が出てくる。問題なのは、行儀作法なのではない、その下地となる思想なのである。そこを勘違いしている。つまり、躾を施す時は、下地となる思想を明らかにする必要がある。それを日本人は、意図的にか、無意識にか、忌避してきたのである。

 行儀作法を封建思想と結びつけている人が多い。封建的な行儀作法なのであって、民主主義にも民主主義の行儀作法がある。

 しつけという言葉は、死語になりつつある。学業が長くなればなるほど、社会常識が欠如してくる。学校が、社会人教育を疎外している証拠である。何のために、学校へ行っているのか解らない。大卒は、口のきき方、言葉の使い方を知らない者が多い。挨拶もろくすっぽできない。敬語もうまく使いこなせない。暴走族や不良の方がよほど敬語を使いこなしている。社会生活の経験がないことが原因である。

 モラルや倫理、礼儀は、人が、社会の中で生きていく上で不可欠な事柄である。モラルや道徳、礼儀は価値観や行動規範の基礎になるべき物である。ところが、この肝心なことを学校でも、家庭でも、職場でも教えてはならないことになっている。しかし、それでは、子供たちは社会の中で正常な人間関係を築くことができない。人間関係が築けなければ、引きこもるしかない。
 結局、学校でも、家庭でも、職場でも道徳や価値観を教えないから、子供たちは、漫画やテレビ、ビデオ、テレビゲームから生きていくための知恵を学ぼうとする。しかも、これらは強烈である。強烈な刺激を、繰り返し、一方的に反復する。その上、その送り手であるメディアの人間に自覚がない。こうして、漫画やテレビ、ビデオ、テレビゲームによって価値観や行動規範が、子供たちに刷り込まれていくのである。

 また、遊び仲間や友達の中で形成される。しかし、表だってこれらを、しつけてはならない事になっているから、どうしても、社会の裏側で、こそこそと行われることになる。いいわけがない。このような環境が、得体の知れない新興宗教や暴走族、犯罪集団のようなものの温床にもなる。

 何か、問題が起きるたびに、危機感が足りないと言う。しかし、本当に危機感、危機意識が足りないのであろうか。これだけ、マスコミが大地震に対して危機感を煽っていたら、危機意識が足りないはずがない。危機意識が足りないのではなく、危機感はあるのだけれど、どうしていいか解らないから、諦めてしまっているというのが本音だろう。溢れている情報は、人々を不必要に不安に陥れるような情報か、地震が起きた後のことである。肝心な今すべきことについての情報は、極端に少ない。そして、何かが起きてしまった後にまた不安をかき立てるような情報が溢れてくる。肝心なのは、危機に陥ったときに素早く行動が起こせるようにすることだ。それは、基本的素養、心構え、作法として身につけておく必要がある。知識や理屈だけではいざというときには役に立たないのである。知識や情報だけ与えて、その時どのように対処すべきかの作法を教えなければ、危機感、恐怖感が先走ってかえって混乱・パニックにさせるだけだ。
 引き籠もる人間は、人とどう接して良いか解らなくなっているのだ。人との接し方は、礼儀作法である。引き籠もる原因や引き籠もっている人間の気持ちが分かったところで、人との接し方を教えられなければ意味がない。

 生きていくために何の役にも立たない事を、望まないのに、押しつけられていく。しかも、生きていくために、必要なことは、誰も教えてくれない。結局、今の子供たちにとっては、テレビやビデオ、漫画、テレビゲームのヒーローたちが師なのである。
 テレビに出てくるコメディアンや漫画のヒーロー、テレビゲームの登場人物、彼等が子供たちの人生の師である。日本を代表する論客として、コメディアンの名前が上位にランクされているのが、その証拠である。しかし、彼等や彼等を世の中に送り出している人間たちに、自分たちが子供たちを感化し、彼等の人生や生き方に影響を与えているという、自覚があるだろうか。それは、元々望みべきではない。彼等の動機は、元々、経済的、金銭的動機にすぎないからである。
 そして、ある一定の年代を超えると、テレビのワイドショーがこれに変わって、価値観を植え付けていく。ワイドショーに出演しているコメンティターにも自覚はない。ただ、視聴率をとれればいいのである。それは、糖尿病の患者に糖分の高い物を与え続けるようなものである。子供を麻薬漬けにしているようなものである。
 かつて、子供に悪影響を与えるという事で問題になった映画がある。しかし、その映画がヒットした瞬間、問題視した人間の言い分はすっ飛んでしまった。メディアの人間にとって重要なのは、映画の内容でなく。その映画がヒットしたことである。しかも、大切なのは、ヒットしたという事実であり、ヒットした原因ではない。問題視されたことが、ヒットした原因ならば、問題視された内容より、問題視されたことの方が重要になる。これが彼等の価値観である。経済的に成功しさえすれば、スキャンダルであろうと、犯罪であろうと、それは重要ではないのである。そういう価値観の持ち主が、子供たちの生き方を左右する。そして、そこから、発生する事件を彼等は食い物にする。

 美は形にある。躾は形から入る。礼は形である。
 礼に始まり、礼で終わる。
 形に始まり、形で終わる。

 行儀作法というのは、人間関係の形、付き合い方の形、手続きの形、仕事の形である。これが封建的だというのでは、人間関係も、付き合いも、手続きも、仕事も何もかも封建的だと言うことになる。つまり、人間の社会そのものが封建的だという事になる。彼等は、封建的な社会と社会が、封建的だというのを混同している。だから、礼儀作法は、封建的だから駄目だと決めつける。

 学校で一番教えなければならないことは、人と人との関わり合い方である。
 しかし、人と人との関わり方などを、学校では最初から無意味な事と決めつけている。
 そして、人と人との関わり方の根本は、礼儀であり作法である。その国の伝統的な人と人との関わりあい方が礼儀であり作法である。つまり、礼儀や作法は、その国の文化である。つまり、日本的なものが礼儀作法なのである。礼儀作法の否定は、日本の文化、歴史、伝統の否定、日本的なものの否定なのである。戦後の教育は、この礼儀や作法の否定の上に成り立っている。必然的に日本人の生き様にも重大な影響を及ぼすのである。



執務要領
報告・連絡・相談
手順・段取り
形を重んじる
仕事を学ぶ
チームワーク・集団活動を学ぶ
段取りをとる
仕事の論理
井戸端会議と会議は違う
仕事には始まりと終わりがある。
基本
仕事の基本
報告書の書き方
企画書の書き方
物事には順序がある
組織的意志決定
仕事について
組織は情報系である。
事前の準備


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