教育の理想を求めて

共鳴共感


僕は、教育の原点は共鳴共感だと思っています。ところがこの共鳴共感が今の教育の現場にはない。それは本物の教育ではなく。偽物の教育です。だから皆精神の病になる。その根本を治さない限り、いじめも自殺もなくならない。なぜなら、生徒は自分の置かれている状況、環境に絶望しているからです。こんな教育ありません。それは教育でなく、調教です。
今の学校の先生の多くは、生徒の方に向き合っていません。だから生徒の悲しみや苦しみを理解しようとしない。
教育の本質は、子供達の苦しみや悲しみをいやし、未来に希望を持たせる事です。なぜなら、教育の目的は、学ぶ者達を幸せにすることにあるからです。自分が幸せになれないと思ったら勉強なんてする必要はありません。
生徒が先生に共鳴共感できなければ、生徒は先生に教わろうとはしません。それを無理強いすれば自己嫌悪、自己否定に陥ります。それは最悪の結果、つまり、人格の崩壊を招きます。
なぜなら、自分が望む生き方と違う生き方を強要されてもその人は本質的に受け入れることができないからです。教育は、その人その人の生き方を模索する旅みたいなものです。教育によって自分を見失い、自分をなくしたら本末転倒です。
教育によって自分を愛せなくなったら、それは毒を飲まされているのと同じです。真の教育は、勉強を通じて自分が好きなり、自分の周りにいる人をいとおしく思えるようになることです。勉強によって父母が嫌いになったら意味がありません。
だかに根本に共鳴共感があり、習いたい、学びたいと言う心を引き起こすことが教育の原点だと私は思います。だから、私は、問うのです。あなたは勉強をしていて幸せ感がもてますかと。
生まれたばかりの子供は好奇心旺盛でなぜなぜと誰彼かまわず聞いてきます。でも大人は面倒くさくなってろくに返事もしない。そして、自分に都合のいいことばかり、押しつけてくる。それを教育だという。そこから教育は間違った方向に向かうのです。勉強が嫌いなのではありません。勉強を嫌いにしていて、勉強しないと叱っているだけです。
だから、僕は、教育の原点は、共鳴共感だと思うのです。

共鳴共感する部分は、はじめは、負の部分、すなわち、怒り、悲しみ、苦しみ、辛い事、挫折感、疎外感、失敗や過ち等と言う部分である場合が多い。
それは、自分の存在や生きる目的等が契機になる事が多いからです。

人生意気に感ずなどと言いますが、なかなかプラスの面で共鳴共感する事は難しい。プラスの面で共鳴共感するためには志がある事が前提となるからです。

人は、生まれて親に扶養されている時期は生かされているのです。そして、ある程度成長したら、生きているという自覚が芽生えます。そして自己が確立されるに従って自分の意志によって生きるという能動的な姿勢が生まれてきます。それが志へと昇華されていくのです。

生かされているという自分を受け入れなければ前向きに生きる事はできない。
勉強だってやらされているというところから、勉強している。そして、勉強をするというように昇華されてはじめて勉強の意義が理解できるのです。
嫌々ながら自分が勉強をさせられているのでは、勉強した事は身につきません。
なぜ、、自分は生きてここにいるのか。
自分は生かされている。そして、生きている。だから生きるのです。

生かされている自分は、受動的にならざるを得ない。しかし、誰しもが生かされているところから始まるのです。だから、負の部分を共有し、やがてそれを能動的な意志へと昇華する、その過程が大切になるのです。
負の部分を負の部分として受け止めるのではなく。生きようとする能動的意志に結びつける導入部分として前向きに受け止めるべきなのです。
辛く哀しい人生をより明るく前向きな人生に変えようとする時、共鳴共感が生まれてくるのです。

だからこそ、師は、人生の悲哀を知り尽くした者が適しているのです。
多くの失敗や挫折を繰り返し、人の苦しみや悲しみに共感できる者こそ指導者である。

なぜ、子供達は、勉強が嫌いになるのか、そこに対する感性がなければやる気や意欲を引き出す事はできないのです。

好きな勉強をさせてもらえないから勉強が嫌いになっただけかもしれない。

それなのにこいつは怠け者なんだ、頭が悪いんだと決めつけたら、勉強をますます嫌いになるだけです。

僕も成績は悪かった。
最初はやればできると思っていた。でも成績が下がるのつれて、こいつは拙いと思うようになる。それで勉強をするそれでも成績がよくならない。どん詰まりになった時、本当に勉強が嫌いなのかと自問自答した。そうしたら、勉強の本当の意味がうっすらと見えてきたのです。それでも友人は僕の事を見ていてくれた。そこに共鳴共感があったからであり、自分にとっては救いでした。それが僕にとっての友です。

最初は過信していたのです。やればできると。でも、やってもやってもできないと悟った時、自分が本当にしたい勉強が見えてきたのです。

だからこそ劣等生に共感する事ができるのです。

そして、共鳴共感できるからこそ劣等感潰されずに前向きな生き方を勧める事ができるのです。





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