教育の理想を求めて
仕事の基本
最近、マンションが傾いた問題で、原因がくい打ちにあることが判明した。
結局、根底にあるのは問題認識に対する甘さである。
ばれなければいいとか、解らないだろうとか、忙しかったからとかといった甘く考えて安直にやったことが取り返しのつかない事態を引き起こす。
後でこんなはずではなかったとぼやいたところで取り返しがつかない。
ky、空気読めないとか。堅いこと言わないでとか、それ以前に仕事の基本が解らないでどうしていいのか思いつかないまま。独断してしまう。結果、誰が悪いのか、責任の所在も曖昧。
オリンピックの国立競技場のやり直し問題、デザインの問題。結局、責任の所在は解らないまま。甘い考えでやったことが莫大な被害を与えているというのに、誰に責任があるのか本質的には解らない。再発防止と言っても個人の常識問題みたいなところに帰結し、結局、一担当者なり、現場責任者だけの問題に矮小化されてしまう。
それは、きちんと仕事の基本を躾けてこなかった付けなのである。
いくら学校の成績がいいと言ってもそれは試験の点数がいいと言うだけで、現実には何の役にも立たない知識だったりする。
こんな事を繰り返していたら日本の民度はどんどん低下して言ってしまう。
マンションが傾いた問題では、くい打ちのデータの改ざん転用が、深刻な問題となっている。
当事者は、組織的な問題ではなく。現場責任者の個人的、モラルの問題に置き換えたいのがミエミエだが、事はそう簡単に片付きそうもない。
組織的ではないから組織的な場合と違う面でより深刻なのである。なぜなら、個人のモラルとかはやがて企業風土の問題に発展し、業界全体の意識の問題すり変わっていくからである。一個人の問題では収まらなくなる。
実際問題は、他愛のないミスというか、過失である。当人はこんなに大事になるとは夢想だにしていなかったのだろう。甘く考えて、甘くやった事がとんでもない事態を引き起こした。
しかし、根本にあるのが何でもない、当たり前な事だから、より深刻なのである。
仕事の基本を体得させていく必要がある。
大体、人を束ねる役割にあるマネージャーたちが、共同で仕事をするという事の意味が分かっていない。
だから、「一人抱え込むなとか。」「明日に仕事を持ち越すな。」「筋を通せ。」「要にいる者、まとめ役は、自分だけが理解しているだけでは駄目。」「段取り八分」と言われても、マネージャー達に言われている意味が理解できない。
そういう発想そのものがないのである。
なぜ、自分できる事をあえて部下にやらせる必要があるのか。なぜ、自分だけが解っているだけでは駄目なのかの意味が分かっていない。だから独り合点で仕事をしてしまう。
それでいて誰も手伝ってくれないと嘆く。
なぜ、報告させる必要があるのか。報告をすることで、情報を共有化すると同時に、仕事を整理し、また当事者に理解させる為にである。
基本的に考えを共同でまとめる作業は、「話をする。」「対話する。」「話を聞く。」三つの基本動作をいかにするかの問題である。
部下に話をすることで、自分の考えを伝える。対話をすることで考えを伝える。聞くことで自分の考えがとれ暗い理解されているかを確認する。そういった行為を通じて共同認識を高め、共同作業を進めていくのである。
共同作業は、たとえば自動車事故に遭遇した時、簡単に経過報告を聞き。別途、詳細について報告を受け。当人の怪我の状況、車両の件、仕事への影響と処理の仕方、連絡先(警察、保険会社)、報告先(上司、関係部署)こういった一連のことを整理した上で、現状はどうなっているのか、次に何をやるのかをそれぞれ5W1Hに即して片付けていく。
しかも、淡々と実務的、事務的、ビジネスライクに応答し、処理することができるか。
その時、言い訳や口答えをせず、必要最小限の無駄なく応答できるか。
こういった仕事の基本をしっかりと身につけているかどうかが重要なのである。
この様な基本が身についていないから、些細なミスが致命傷になるのである。
そんな細かいことどうでもいいといった瞬間、全ての躾が水の泡になることすら気がついていない。結局個人の責任にしているから何の進歩していないことに気がつかないのである。
自分の思惑や感情、嗜好に囚われて言わずもがな事、言っても仕方ない事を言うな。
事務的、実務的、ビジネスライクに物事を処理できるようになれないことが問題なのであり、それを執拗に治し続けることを厭うことが悪いのである。
人を叱ったり、注意できないような状況にしていることがいけないのである。
また、仕事は、点で考えるのではなく、線や面で考えなければならない。仕事は過程なのである。
仕事には起点と終点がある。仕事を点で捕らえていたら、仕事を流れとして認識する事ができない。要素に分解する事もできなくなる。個々の作業に分解できなければ、部下に指示する事はできない。結局、一人で抱え込む事になる。
点と線を結ぶような仕事もするなとよく叱られたものである。道筋を明らかにして仕事をしなければ、段取りがくめないし、始末が悪い。
仕事の能力は、習慣の影響を受ける。実務に堪能な者の多くは、始まりと終わりを明確にする習慣を持っている。逆に、仕事ができない者の多くは、始まりと終わりが不明確で、けじめがなく、だらしがない。
今、学校教育では、予鈴、終礼を授業からなくしつつある。
予鈴、終礼は、強制、強要だからいけないというまったく馬鹿げた理屈である。
強制のない社会はない。もし法治国家を自認するなら、法こそ強制そのものである事を自覚すべきなのである。
始まりも終わりもハッキリしなかったら予定が立たなくなる。
そんなのは土台からおかしいのである。
自主性とか、主体性とか、個性を重んじてなんて言うが、強制強要をしたから主体性や自主性が奪われるわけではない。
それよりも自分の形が見いだせない方がずっと主体性をなくしてしまう。
何事にも始まりと終わりがあり、その始まりと終わりをどの様に設定し、けじめをつけるかを教えておかなければ、社会へ出て苦しむのは子供達である。
教師の勝手な理屈で段取りやケジメがつれられない大人を生み出すのは大人の身勝手でしかない。
大切なのは、始まりや終わりをどう設定するかを身につけさせることである。
自分達の自己満足の為に、決め事を決め事として理解できない大人を作り出すことがどれほど罪なことかを教育者は自覚すべきなのである。
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