教育の理想を求めて

憲法とは



日本は、七十年以上も戦争を経験していないという極めて異常な状態にある。その異常な状態をあたかも正常な状態だと戦後の日本人は、無自覚に受け止め、前提としている。
そして、自然状態は、まったく争いのない世界であるかの前提に立ち自国の憲法を理想的としている。
自然状態が争いのない社会であり、自然状態にすれば恒久的平和が実現できると信じるのは無政府主義である。その意味で戦後の日本人は、無政府主義者である。

無政府主義者が護憲を論じるのだからそれ自体転倒している。

集団的自衛権がどうのこうのと言う前に、憲法とは何か、憲法の本質を理解する事が先決である。

なぜ、日本が七十年以上も戦争に巻き込まれずにこれたのかと言えば、それは多分に地政学理由による。
共産主義勢力と自由主義陣営の境界線に位置し、中国、ソビエト、アメリカと国境を接し、その要の位置する。
そういう日本の立地条件が、緩衝地帯として平和が維持されたというのが現実である。
冷戦終結後も地政学的、軍事的な意味は変わらず。引き続き、他国からの侵略から護られてきたというのが実態である。そこには、アメリカ軍の存在があったという点も忘れるべきではない。

以上の事について、多くの日本人は薄々気がついている。ただ、洞ヶ峠を決め込んでいるに過ぎないか、見捨てたりはしないだろう、攻めては来ないだろうととたかを括って甘く考えているかである。然もなければ世間知らずすぎる。

戦争も平和も現実なのである。

世界の大勢は、自然状態は、争いの場である事を前提としている。自然状態とは、野生の状態を言うのであって柵で保護された状態を言うのではない。
つまり、猛獣が跋扈する弱肉強食。しかも、常に飢え、自分の力で食料を確保し生きていかなければならない状態なのである。サバイバルなのである。
世界一般では、無秩序で暴力的な世界から身を守る為に、集団が生じ。社会契約が結ばれたとする。
それが法であり、法の根源たる憲法が成り立つ前提なのである。
ありもしない現実を自明な状態だとしてアメリカの庇護の下に繁栄を謳歌してきた日本は、海外から見ると巧妙に振る舞っているとしか思えないのかもしれない。

争いのない空間とは、囲い込まれた世界。つまり、柵に囲まれた牧場か、動物園、或いは、牧場、愛玩動物に与えられて空間にしかない。要するに家畜の世界である。
その様な世界に住む者に与えられる自由とは、家畜の自由でしかない。
家畜は、祭りの夜の宴席の料理に供され、屠られるのである。
生け贄にされる運命なのである。
家畜の自由を信じている者は隷属者にすぎない。

少なくとも、自然状態というのは無法状態なのである。そこは弱肉強食の世界である。

法は、人間が定めた事である。そもそも、法は、無法者や争いから身を守ることを前提として制定されているのである。争いのない世界を前提としたものではない。

戦後の日本人は、与えられた枠組みの中でしか物事を考えられないように洗脳されてきた。憲法というのも与えられた枠組みに過ぎない。最初から憲法が決められていて、その憲法の下に法や国家制度が決められている。その枠組みの中で安住してきた。
いつの間にかその枠組みが所与の法則のように日本人を拘束している。
国家理念も自由や民主主義もアメリカから借りてきて、いいなりに信じてきたのである。

自由主義国、民主主義国といいながら、正統的な自由主義、民主主義運動が存在しないのがその証拠である。自由だ、民主主義だと叫んだ所で借り物に過ぎない。然もなければ、反体制、反権威しかない。あろう事か自由主義運動や民主主義運動を反権威、反体制運動だと思い込んでいる知識人もいるくらいである。逆に自由主義体制や民主主義体制を擁護したら右翼だと決めつけられかねない。

憲法は、観念の所産ではない。憲法は、現実の利害の結果であり、本来、血生臭いものである。憲法は、権力闘争の果てに勝ち取ったものだからである。正統的な憲法は、革命や戦争、内乱を収束する過程で結ばれた事なのである。神や天から与えられた事ではなく。人間の所業なのである。そこを間違ってはならない。憲法は天から降ってくるものではない。

ユダヤ教やキリスト教のような十戒とは違う。憲法は神との契約ではない。人と人との契約であり、宣言を基としている。

憲法は、建国の前提である。
国民国家とは、思想的な存在なのである。国家という概念が確立されたのは近年である。それまで国家という概念は、存在しない。なぜなら、国民という概念か確立されていないからである。
国民国家が成立した前提を明らかにするものが憲法である。
だから手続きが重要となる。

つまり、何時、誰が、どの様な手順、手続きにおいて制定したかが、憲法の正当性を担保しているのである。

憲法は、契約であり、誓いだと言う事を日本人は理解する必要がある。

憲法というのは、決められたとか、天から与えられた事ではない。
その様な規律は、家畜を纏める為の規則に過ぎない。
自分達の手で、自分達の意志で決めるからこそ憲法なのである。

国民国家の前身は、結社であり、団体である。だからこそ、国民国家においては、結社、団体の自由と言論の自由が真っ先に認められたのである。又、自由であり、平等であり。
そして、同志愛と団結が核となるのである。
その上で契約を基とし、法が基本となる。
その前提となるのが憲法であり、前提こそが国家理念である。

憲法は、独立を前提としている。独立とは、自国民を自分達の力で守ることを前提としている。自力で自国を守れない国は独立国とは見なされない。自分の力で自分の国の独立を護ろうとしない国は独立国とは認められない。
国家としての独立を前提としていない国は、独立国としては認められないからである。
国防を放棄した国は、占領地か、植民地である。
憲法の正当性を論じるには、この点を抜きにしては語れない。

よく中立国として引き合いに出されるスイスは、国民皆兵、徴兵を制度を基盤とした強固な民兵制度によって自国の独立を焦土と化しても断固として護る意志を内外に示している。非武装だなんて考えもしていない。
民主主義国の代表でもあるアメリカは、銃の所持を権利として認めているのは、国民一人ひとりが国家の独立と個人の権利を護る意志の現れである。

軍隊があるから戦争が起こるというのは、医者がいるから病気になるとか、消防士がいるから火事が起こるとか、警察がいるから犯罪が起こるというのと同じ論法である。

独立を護るのは主権者である。
この主権という概念も近代的な概念であり、最初から国民にあったわけではない。フランス革命以前は、フランス語で至高性を意味し、ローマ皇帝や法王に対する概念だった。
それが現代は、国民、及び領土を統治する権力。内政干渉を排除し、国家の独立を実現する権利。国家の法を定め、国家の最終的意思を決定する権利である。
この様な主権は、国家の独立によって保障されている。つまり、国家の独立を自分達の力で護ろうとしなければ、主権は認められないのである。
主権も近代国民国家においては、国民が革命や権力闘争によって奪い取った権利、権力である。

日本国憲法は、以下の前提の上に成り立っている。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

つまり、日本は、信頼にたりる公正と信義をもった平和を愛する諸国に囲まれているという事を前提とし国民の安全と生存を保持することが可能だとして成り立っているのである。

これは日本国憲法の下書きを作ったアメリカ人に対する皮肉にしか聞こえない。
戦後アメリカは、この様な幻想を抱いたことは一度たりとない。
アメリカ人は、プラグマティスとである。現実主義者である。
しかも、日本国憲法の下書きを作った時アメリカは、独裁国や軍国主義国と勝利した直後であり、共産主義国の脅威に晒されていたのである。そんな時に、軍政の当事者が信頼にたりる公正と信義をもった平和を愛する諸国民に囲まれているなどと言うのは悪い冗談である。
現実に、日本の憲法が制定された後、朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガニスタン戦争、湾岸戦争、イラク戦争と休む間もなくアメリカは休みなく戦い続けてきたのである。

隣人の善良さを期待するのは願望であって現実ではない。隣人が善良であって欲しいというのは、自分の都合であって、現実ではない。希望を前提としたら平和を維持する事はできない。なぜならば、平和は現実だからである。
例えば、全ての国が武力を放棄したとしても戦争がなくなるとは断定できない。
それは、警察をなくしてしまえば犯罪がなくなる。医者がいなくなれば病気がなくなると言うくらい非現実的な発想なのである。
病気になりたくないといくら希望した所で、人は病む時は病む。ただ健康を維持する為に、励むしかないのである。病気になりたくないと思うだけではなく。現実を直視し、健康に気を付ければ、病を遠ざける事はできる。一番危険なのは、自分は病気にかからないと過信し、不健康な生活を続ける事なのである。戦争を直視しない事は、厭な事だからと言って病気の事を考えないようにすれば、病気にならないと思い込んでいるようなものである。

戦争を避けたいのならば、国際情勢を直視する事である。希望的観測に踊らされない事である。

日本国憲法が制定された前提は、日本が戦争に負けたという事実以外の何ものでもない。

憲法の下書き作った者達が、一度たりと信じていないことを大前提として制定された憲法とは何か。
理想でも何でもない。ありもしない現実、空想を前提としたものでしかないという事である。
それは虚構である。実験的に作られたとしか言いようがない。
しかし、それを真っ正直に七十年間護持してきた所に日本人の真骨頂がある。

日本は憲法的には、占領地か、植民地である。占領時に制定された憲法でありから、占領者から見れば必然的な帰結かもしれない。だから、改憲もしにくく作られている。ただかろうじて自衛隊の存在が、日本の独立を守っている。

ちなみにスイスの憲法は、改正しやすくできている。十万人の改正要求があれば国民投票を実施する事になっている。
2013年9月22日、徴兵制度廃止について国民投票が行われ、圧倒的多数を以て否決されている。

いかなる国も、国益に合しなければ、他国民の為に、同胞の血を流したりはしない。自国の独立は、自分達で守る。これは一般前提である。
自国の独立を他国の力で守ろうというのは日本人だけである。誰も護ろうしない国は護りきれるものではない。

憲法は、建国に当たって何を前提とすべきかを定めたものであり、あくまでも現実主義に立脚したものでなければ成り立たない。憲法は理想ではないのである。
民主主義国にとって自由も平等も同志愛も理想ではなく、現実なのである。

民主主義の理念は、博愛ではなく、同志愛である。博愛というのは、英語を日本語に訳した際に当てられた言葉である。

侵略する、しないを問題とするが、侵略されない、侵略させないという考え方が欠如している。元々、国防というくらい、本来侵略から守る事こそ憲法の基本的前提なのである。
自分が侵略する意志を持たなければ相手も侵略しないなどと言うのは、余程の世間知らずか、或いは、正常な判断力を失ってするかのいずれかでしかない。
軍隊が侵略的か否かは、国是、即ち、憲法の定める所で決まる。侵略的であるかどうかは、軍隊固有の性格ではなく。国民の意志で定まるのである。

自分が武装をしていなければ、どんな凶暴な相手でも襲ってこないというのは一種の信仰である。
この様な信念は、信仰に基づく以外に考えられない。
然もなくば、非現実的な妄想の上に成り立っているとしか言えない。

気を付けるべきなのは、専守防衛、非武装、無抵抗主義を一緒にしてはならないという事である。非武装は非武装、無抵抗主義は無抵抗主義である。

大体、日本人は、憲法の正しい意味も理解していないように思える。
憲法の正当性は、主権と手続きによって担保される。
他国の支配下にあって主権が確立しない状態で制定された憲法は植民地憲法である。
この点を前提として考えないかぎり、憲法の意義は理解できない。
自主憲法などと言う世迷い言を言っているようでは憲法は解っていない。憲法は、悉く自主的な作られるものであり、自主的に制定されたものでない憲法はそもそも正当性がない。
憲法は、争いの場の中にあって国民の生命財産を守り、権利を実現する為に制定されるものであり、そもそも、自国民の生命と財産、権利を護ろうとする意志がなければ、憲法の意義はないのである。

国民国家が成立した時代は、人権が認められておらず。共和国の周囲は、反共和国、共和国の敵だらけだったのである。だからこそ、自分達の考え、原則、建国の理念を内外に示し、自国の正当性を強く主張する必要があった。だから、憲法を必要としたのである。
憲法は、闘争の中から生まれたのである。

断じて、周辺国の公正を信義を信じたからではない。

日本人は、日本という国を作って何から何を護ろうとしているのか。又してきたのか。
その論議を抜きにして憲法を語る事はできない。

憲法は、第九条ばかりが問題なのではない。
むしろ、憲法の前提こそが問われるべきである。

アメリカもフランスも独立宣言、人権宣言があって憲法は成り立っていることを忘れるべきではない。
国民憲法は、圧政に対する抵抗から生まれたのである。

日本が侵略的な国家となるか、非侵略的な国になるかというと建国の理念によるのである。警察は、国民の人権を守る番人にも成れば、権力の犬にもなる。根本は、建国の理念によるのである。侵略を目的とした戦争はしないという強い意志を国民が持てばいいのである。
軍があろうと、なかろうと大切なのは国民の意志であり、国家の仕組みである。
それを定めるのが憲法である。

人が護るべき正義とは何かは、映画やテレビドラマ、漫画、小説などで何度でも描かれている。
何を護るべきか。それを決めるのは国民である。

戦後の日本は、家畜化するように教育されてきた。
自由人は、肥った豚になるより、痩せた狼になれと言われた。
真に独立国と胸を張りたければ、自分の意志で自分の国をどの様な国とするかを決めた上で、命がけで自国の独立を護るべきである。
その礎が憲法である。

憲法に歴史的正当性を求めるならば、それは、封建体制や君主体制を肯定する事になる。
歴史は作られるものであって拘泥するものではない。
憲法は、過去の歴史から人民を解き放つものである。

憲法について考えるのなら、自分達で自分達の憲法を作ってみればいいのである。
日本人として、日本をどんな国とするのか。それを自分達で確かめ作ってみればいいのである。

戦争は、起こしてはならない。祖国を戦場にしてはならない。
しかし、軍隊があるから、戦争になるのだと言う考えは幼稚すぎる。
戦争を起こさないというのは国民の意思である。
国民の意志は、憲法に表すのである。
スイス人は、永世中立を護ろうとした時、民兵制を敷き。原爆の脅威が生じた時、核シェルターを作ったのである。
それが直接民主主義を国是としたスイス国民の意志なのである。




戦争を考える時、我々は、現象的な事に眼を奪われて、その背後にある真の原因というのを見落としがちになる。要は、戦争に勝ったとか、負けたとか、そんな結果ばかりに囚われて、その根底にある真実から目を背けたくなる。
そして、ついついステレオタイプの答えを見いだして何となく安住している。
戦後70年と言うけれど、まるでフワフワとした夢の中に日本人はまだ生きている気がする。
今の日本人にとって戦争は非日常的な出来事だけど、日本人以外の人々にとって平和こそ非日常的な出来事。
目を開き現実を直視しないかぎり、真の平和は勝ち取れないのだと私は思う。
単純に戦争を起こした犯人は誰かではなく。
戦争に負けるとはどういう事で、その結果日本人は何を失ったのか。それを明らかにしなければ、集団的自衛権がどうのこうのという議論も夢の中の出来事に過ぎない。
なぜ、戦争に負けたのかを問うならば、なぜ、何の為の戦争だったのかを明らかにした後で問うべきなのだ。なぜ日本人は戦わざるをえなかったのか。
自存自衛と言うけれど、日本人は、何から何を命を賭けてまで護ろうとしたのか。
何の信念も確証もないままに戦争に引きずり込まれ、いわれなき敗戦の汚名を着せられない為にも・・・。
何処に行こうとしているのかさえも知らされないままに戦場に投げ出され、それでもけなげに日本の為に戦った多くの兵士の為にも・・・。
歴史の奥底に隠された真実を明らかにする必要がある。
負けたという現実ばかりに囚われて、今の日本人は、なぜ負けたのか。誰に、何に負けたのかすら明らかに出来ていないからである。





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