教育の理想を求めて
仕事には始まりと終わりがある
仕事には、始まりと終わりがある。
組織的な仕事では、指示・命令に始まり、報告で終わる。
戦後、指示・命令する事は悪い事だと言わんばかりの教育がされてきた。
指示・命令は、軍国主義につながるというのである。
又、強要、強制は、生徒の主体性、自主性に反するから駄目だとし、指示・命令は、強制、強要だからいけないというのである。
我々は、学校に入学するとすぐに整列の仕方、号令の出し方、聞き方を教えられた。
そして、予鈴が鳴った後、起立、礼の号令によって授業が始まり、起立、礼の号令によって授業が終了した。
いま、起立、礼の号令どころか予鈴する廃止されてしまった。
だから、授業から始まりと終わりのサインがなくなった。
しかし、組織的な仕事には、始まりと終わりがある。
始まりや終わりが明確でないと、仕事からケジメがなくなり、全体がだらしなくなる。
何事もはじめは漠然として、混沌としている。
曖昧模糊とした深い霧に包まれている。
構想は、夢、幻のようなものである。
この頃は、未だ夢は夢である。
それが、あるところから現実味を帯びてきて、段々とその姿を現してくる。
そうなると正式な形を持たせないと、幻のままで終わってしまう。
何事にも始まりがあるのである。
しかし、終わりは解らない。
いつ終わりが来るのかは誰にも予測がつかない。
果てしない仕事の終わりに何があるのか。
栄光なのか、衰退なのか。
誰にも解らない。
良い時に終わるというのは難しい。
未練たらたら、決断できないでだだらとしている内にいつの間にか形骸化して暴力的に終わらされる事の方が多い。
人間引き際は難しい。
幕引きとはよく言ったものである。
いずれにしても仕事には始まりと終わりがある。
仕事の始まりは、指示・命令である。
指示・命令を出すべき者がださいな事は、無責任である。
指示。命令を出すから以後の仕事に対する責任の所在が明らかになるのである。
少なくとも、指示した者は、自分の出した指示に責任を持たなければならなくなる。
指示・命令を出さずに担当者に任せるというのは、全ての責任を担当者に負わせる事を意味する。
だから担当者は指示・命令が出されなければ、決定事項を履行する責任を負わない。
報告がされていない仕事は、上司は、履行されていない、或いは終了していないと見なす。故に、例え、仕事が履行されていたとする、或いは、終了していたとしても報告されていない事は、やっていない事と同じである。
後でやってありますとか、やりましたとか主張しても、それは抗弁、言い訳として見なされる。
報告は、指示命令があって実行される。報告を躊躇したり、実行されていないのは、指示命令が出されていない、或いは瑕疵がある場合が多い。
故に、報告が適正に為されていない場合は、どの様な指示命令が出されているかの確認から始める必要がある。
指示、命令が出されている場合、指示、命令が守れなくなった場合、或いは矛盾が生じた場合、受令者は基本的に確認をする。
指示・命令が曖昧な場合、或いは、指示、命令が指示命令としての要件を満たしていない場合は、受令者は、自分勝手な判断で行動せざるを得なくなる。
その瞬間に組織の統制は失われる。
故に、組織を統制する者は、指示、命令、および命令系統の維持に努める必要がある。
さもなくば、組織を制御する事が不可能となる。
指示、命令の不可欠に要件は、発令者、受令者、発令日、期日、やるべき事である。
報告は、自分の為にするのである。
報告する事で、一部の責任が免責されるからである。
少なくとも説明責任は果たしている事になる。
担当者は、自分の身を守るためには、報告する必要がある。
報告を面倒くさがるのは、自分の為にならない。
報告は、自分の身を守るためにも必要なのである。
報告によって仕事は一つの区切りがつく。
又、報告によって一つの区切りをつけるのである。
そうしないといつまでも仕事にケジメがつけられない。
一日の仕事は、朝の指示に始まって夕の報告に終わる。
それがケジメである。
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