教育の理想を求めて
厳しさを求めて
最近は、厳しさと言う事は、罪悪の如く考えている人が多い。
というよりも、そう考えさせられているのかもしれない。ある種の洗脳のようにも思える。
なぜならば、厳しさを否定している者の中には、自分の仲間に対して厳しくしておいて、甘くすることは堕落他と身内に対して指導している者がいるからである。
自分はかつて、厳しくしていて会社を辞められたという事はあまりない。
むしろ、遠慮をして、厳しく指導することを躊躇して辞められたことは何度もある。その都度反省をしているのだが、なかなか、徹しきれない。
なぜなら、厳しくすると言う事はには、勇気がいるからである。
良く思われたいとか、嫌われたくないと思うとついつい甘くなる。
それは相手を思うと言うより、自分がよかれと思うからである。自分に甘いのである。
臆病なのである。その臆病さが相手に伝わるから、相手に見限られてしまう。
相手を育てたいと思えば、厳しくなる。母親のように・・・。
他人の子ならば、どうでもいい。だから厳しくはなれない。
嫌われるだけ損だからである。
我が子はそういうわけにはいかない。責任もあるし、愛情もあるからである。
良くイジメや虐待と厳しさとを錯覚する者がいる。
子供を虐待していてそれを躾だという。そういう人間には、人としてと言う視点が欠けている。
人間として何をしていいか。悪いかが解っていない。そういう人間か厳しく躾けるなどという事ができ眼はずがない。
他人に厳しく、自分に甘くなどという事が通用するはずがないのである。
人に厳しく接しようとする者は、先ず、自分に厳しくあらねばならない。
他人に甘いのは、自分に対する言い訳に過ぎないのである。
最初にも言ったように、自分は、厳しくしていて辞められたことはあまりない。逆に、優しくしていて辞められたという経験は、幾度かある。
特に、最初、優しくしていて後から厳しくするのはやめろというような事である。
大体、人間というのは、はじめは、誰もが素人だと言う事が前提である。だから、厳しくされて当たり前という意識がどこかにあるし、そこで厳しくされたからと言って諦めるようでは最初から見込みがない。
それを最初に煽てられておいて、後で急に厳しくされたら、騙されたと思うからである。
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