教育の理想を求めて

誰が最初か


思想や哲学を勉強していると何時でも先陣争いのような事に巻き込まれる。
誰が最初かと言う事が物凄く問題となるのである。
それは著作権の問題とも絡んで、人の名誉や存在意義のように騒がれる。

しかし、本来、そんな事はどうでも良い事である。
学問や哲学は人の役立てばいいのであるから・・・。
もし仮にそれが重大な意義かあるとしたら、自分の言動に何処まで責任を持つべきかと言う一点においてである。

人を指導していると指導した相手に指導したことと同じ事を指導され、苦笑いすることがある。
教えた当人は、自分が発見したことのように教え。実際自分が発見したことだと思い込んでいるのだろう。
まあ、冷静に考えてみれば、自分が教えたことを理解し、自分のものとしているのだろうから腹を立てても仕方がないのだが、自分教えたことを教わるというのは妙な気分でもある。

もっと平たく考えれば、自分が教えたことが正しいことを立証されたようなものだから素直に喜べば良いのかもしれない。

それに、最終的には、教えた事を当人が自分が体得、修得しなければならないのだから当然と言えば当然なのである。
もっと突き詰めると教わると言う事が一番の教育でもある。

そういう風に割り切るべきであり、割り切らなければいけないのに、なにか割り切れないものを感じてしまう。そういう自分に情けなく。また、修行が足らないなと思ったりもする。

翻って考えれば、自分も、人から教わった事を我が事のように教えているのかもしれない。
いやきっとそうだ。

人間というのは、悟りきれない者である。

ただ正しい事は、誰が考えても、又、経験的に、前提条件が同じならば同じ結論に行き着くだろう。だとしたら、自分の正しさが証明できただけなのかもしれない。



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