教育の理想を求めて


孤独



自分は、今まで、孤独というのを余り味わった事がない。
父が亡くなった時だって悲しいと思ったけれど孤独だと思った事はない。
子供の頃から一人で居る事は何の苦にもならなかった。
学生時代河口湖の山荘に半年くらい一人で籠もった事があったけれど、その時も怖いとか、孤独だとかは感じなかった。
一人で、当時、誰も居ない山荘の周辺を歩き回っても不思議と孤独は感じなかった。
自分、何かの欠陥でもあるのかと思うほど、一人で居る事は平気だ。
しかし、息子が、カナダへ留学すると決めた時、なぜか、ぞっとするほどの孤独を感じた。
なぜかと考えてみたが、結局、今自分がこうして作り上げた思想も自分の死と伴に全て消滅してしまうんだろうなと感じたからだろう。
まあ、それでも、自分としてみたら、書き続けるしかないのだけど・・・。
一番、自分の事を理解して欲しい人間が自分の下から去って行く。
それが、本音なのかな。
自分は信じる道を生きてきたし、今、自分の築き上げた思想も、どこかで、世の為、人の為になると信じているけれど・・・。
世の中に認められたとかと言う気持ちもサラサラないけれど、自分に見えてきた世界も全て失われてしまうんだなと思った瞬間、どうにもならない孤独感、震えるような孤独感に一瞬だけど襲われた。
でも今はそれもない。
ただ一人死んでいく覚悟だけがある。
老後、息子の世話にだけはなりたくないな。

老いは残酷だ。
自分から何もかも奪い去っていく。
それでも最後まで、自分の気力を振り絞って前進するしかないのだろう。

教えると言う事は互いに相手を認め合う事が前提となる。
それは親子であろうと例外ではない。
息子にはいろいろと教えやりたいと思うのだが、相手が自分の事を受け入れなければ何ともしようがない。
むろん、息子からも教わりたい。
教えると言う事は教わる事であり、教わると言う事は教える事に通じるのだから・・・。
息子から見たら、世の中が受け入れていない。女房だって認めていないような人間から教わる事は何もないと思うのは諾ない事である。
ただ、これまで培ってきた事が自分の死と伴に失われるのは、やるせないという思いしかない。

それも、自分勝手な思い込みと言われればそれまでである。
意味もなく認められ、名声を得たいとは思わないが、一人くらいはと思う事さえ、我が儘なのかもしれない。
これは一つの業みたいな事で、少しでもこの世の中、この国のためによかれと思えば思うほど、誰にも知られずに朽ち果てていくというのは、無残な事なのである。

息子が小学生の頃、家族で温泉に行き、二人で話をした事がある。
その頃までに、息子は初等の数学史をマスターしており、又、元素の周期表をそらんじ、個々の分子の特性まで頭に入っていた。
温泉につかりながら、数の本質ついて話したけれどなかなかのもので自分も学ぶ所が多々あった。大体、数学を初歩から勉強し直すきっかけを作ってくれたのも息子である。

息子が麻布中学の入試に落ちた時、正直がっかりした。
だから、自分は、息子がカナダに高校から留学したいと言われた時、強いて反対はしなかった。

親ばかと言われるかもしれないが、息子には可能性も才能もある。
そんな、息子の才能を受験勉強ですり減らしたくないし、精神的なダメージも大きいと思う。思春期から青年期は、才能をのびのびと伸ばす絶好のチャンスである。大切な時期に型にはまった教育をされたらたまったものではない。精神的にも、肉体的にも歪な人間を育ててしまう。

日本の教育制度は、あくまでも行政や教育者、父兄の都合や思いで出来ている。
当事者である学生の側を向いていない。向いているとしてもせいぜいいってスポーツの世界ぐらいである。だから体育会なんて階層が出来てしまう。スポーツはスポーツで英才教育でしかない。高校のスポーツは、プロやオリンピックの養成機関ぐらいでしかない。だから、プロやオリンピックに関係のないスポーツは、影が薄くなる。趣味くらいにしか思われていない。その最たるスポーツが剣道である。つまりは、体育の事業が本来の目的からずれているから、体育会系の人間は、受験戦争とは別枠の世界で生きている。
受験だって体育会系の人間は特別扱いで、実力があれば試験を免除だってされる。
今の日本の教育は思想や哲学をどこかに置き忘れてしまった。道徳や人として如何に生きるかなんてどうでもいいのである。ただ、試験で高得点をあげ、良い大学へ行くためにのみ存在する。それが今の学校である。それでは、真の才能のある者は報われはしない。
だから、受験勉強なんかで才能をすり減らすくらいなら留学した方が良いに決まっている。だから、哀しいけれど、淋しいけれど息子の将来を考えたら、留学をさせた方が良い。
海外に行かせるくらいなら、自分の事は忘れさせた方が良い。親なんて斬り捨てていくくらいの覚悟がなければ海外で成功なんて出来やしない。
息子に理解してくれとか言った所で始まらない。ただ俺の事は忘れろとしか言えない。
中途半端で帰ってくるかくらいなら親なんて居ないと思う覚悟で行かせるべきである。
老後の世話など期待できないし、しようもない。
それは、例え、日本にいたとしても同じである。
だから、今生の別れと覚悟して送り出すしかない。それはそれでいい。一人で死んでいけばいいのである。自分の事を認めていない人間に泣かれても嬉しくとも哀しくもない。それが志ある者の死に様と覚悟を決めるしかない。
それより哀しいのは、今の日本で有能な人材を育てようもない事である。

自分のやっている事を理解してくれる時間がないなと。それはだけは失望したけれど、今の日本に居たら彼の才能は伸びない。出すなら今しかないと思う。達者でいろよ祈るだけだ。

今の日本の先生は、目先の事しか見えていないし、自分事だけで頭がいっぱいだ。
それは、師を師として遇する事を知らないこの国の悪弊にも責任はある。
結局、植民地根性が染み込んでしまったのだろう。
自分を自分として表現する術を知らない。

息子からしてみれば、誰にも認められもせず、権威もない私など不甲斐なく見えるのだろう。それは家内も同じだけれど・・・。
まあ、そう思っているのは、自分自身も然りかもしれないだから人を責めるわけにもいかない。同情するだけだ。

ただ、今自分が作り上げた世界が失われるのは返す返すも残念な事である。
それも未練なのであろう。
今の日本では、自分のような人間の思想は泡のように消えていく事が定めなのだろう。

それが孤独の根源にあるのかもしれない。

息子と温泉で話した事は、かけがいのない想い出である。
結局、人間の思いは遠い記憶の中に埋没していくだけなのかもしれない。





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