教育の理想を求めて
何事にも始まりがある。
そして、何事も最初が肝心なのである。
始まりをいい加減にしたら後で揉め事になつても収拾がつかない。
そして、大概の揉め事は始まりをいい加減にするからである。
ところが日本人は、始まりをいい加減、出鱈目、適当にする癖がある。
民主主義は合意を前提とした思想である。
だから、始まりを明確にする必要がある。
そして、始まりは問題意識である。
問題意識とは初期設定でもある。
問題点を明確にしてから始めないと後々迷うことになる。
我々は、問題意識を持てと学生時代、盛んに言われた。
丁度、学園紛争が吹き荒れ、社会の問題に多くの学生が関わった時代である。
お前らは、問題意識が低いとよく詰られたものである。
ところが、今は、問題意識という言葉さえ聞かれなくなった。
低いとか、低くないとかと言う次元を通り越して、問題意識そのものが消え失せてしまったのかもしれない。
ただ、我々が言われた問題意識というのは、政治問題に対して偏っていたように思える。
それが問題意識そのものを歪め。
問題意識が失われる原因を作ったのかもしれない。
最初から偏った思想や偏見によって予め答えが用意されていては、真の問題意識など育ちようがない。
彼等の言う問題意識は、反体制や反権威という偏向の上に最初から立っていた。そして、体制に叛逆させ、革命的状況を作る目的で問題意識を持てと言っていたのに過ぎない。
問題意識は、社会の矛盾や政治問題にのみ向けられる事ではない。
問題意識の原点は子供達の素朴な疑問である。
問題意識は、自分達で見いだして自分達の力で解決する事に意義がある。何らかの偏見や先入観に囚われていたら真の問題意識なんて持ちようがない。
それは、最初から答えが用意されてしまっているからである。最初から答えが用意されているようでは、問題解決ではなく。誘導に過ぎない。それが教育だと言われればそれまでだが、私には単なる洗脳に過ぎない気がする。
学校を卒業し、社会に出ると問題意識の重要性は、また、違った意味を持ち、違う意味で重要になる。
社会では問題意識そのものが問われるのである。
社会に出たら問題意識がなければ生きていけないくらい重要になる。
どうしたら、売上が上がるか。これから、景気はどの様に変化するか。優秀な人間を採用する為にはどうしたらいいのか。品質を一定に保つ為には、どうしたらいいのか。価格はどのくらいに設定すべきか。費用を削減する為には、何を減らせばいいのか。どの様に口説けば女性に相手をしてもらえるのか。子供の躾はどうしたらいいのか。どの政党に投票したらいいのか。
これらは総て問題意識から発生される。
つまり、問題意識は、総ての思考の始原なのである。
ところがその問題意識が曖昧で、ハッキリしない。
そこに現代の問題が潜んでいるのである。
少子高齢化だから大変だという。それを鵜呑みにしてただオウム返しに答える。
少子高齢化とはどんなことだろう。なぜ、少子高齢化だと大変なのだろう。なぜ、少子高齢化になったのだろうと言った設問をして、調べようともしない。ただ、少子高齢化だから大変だ大変だと空騒ぎするだけである。だから問題の解決ができない。
解決できない以前に問題化できないのである。
何が問題なのかを見定める事なく、いきなり解答を求めようとする人をよく見かけるが、それでは物事の本質を理解する事なくただ上っ面の帳尻を合わせただけの小手先の解決で終わってしまいます。真の目的も解らずに、自分達が、どこにいて、何をやっているのか、ゴールも見えないままに闇雲にただ突き進んでいるのに過ぎなくなってしまいます。それは問題を解決すると言うよりかえって危険な状態にしてしまうだけです。
何事にも、問題を解決する為には、過程、プロセスがある。
だから、問題を解決しようとしたら、予めに明らかにする事は道筋であり、ゴールである。
予めに用意するのは答えではない。答えがわからないから問題なのである。
問題意識とは、問題を認識して、質問形式の設問に置き換える事である。
質問形式は、問題を解明する為の要件をすべて整えてなければならない。それが問題化する場合一番難しい事である。
問題を解明する要件は前提となる。
又、答えは、用意されていない。問題によっては答えはない事もある。
答えを出す過程も決められているわけではない。
答えを導き出す手段も限定されているわけではなく、開かれた空間の中で状況によっては集団で組織的に解明していく。
それに対して、現代の学校教育は、問題は、予め先生や学校が用意しておく。その問題の答えも予め用意しておく。しかも、その答えは一つ出なければならない。できれば、その答えを導く過程も一つである事が望ましい。しかも、問題を解明する空間は基本的に閉ざされている。
多くの教室は密室なのである。
学校教育の最大の問題は、問題意識そのものを否定している事である。
つまり、問題を設定する事、それは学校の先生がやる事で、生徒が関与するべき事ではないとしている点である。
学問の動機は問題意識にある。人は自分が疑問を抱いた問題だからこそ主体的に問題に取り組む事ができるのである。
最初から問題から遠ざけたら、学問に主体的に関わる事ができなくなる。
何でもかんでも疑ってかかれというのは、問題意識において正しい。しかし、それは自分で問題を探し、問題を設定するという意味においてである。
問題が設定されていたら、疑問を持つ余地は与えられない。
この様な間違った認識によって教育されれば、疑問を持てと言う事は、常に、与えられた事を否定的に捉える事、批判的に捉える事を意味してしまう。その結果、何事に対しても懐疑的で否定的な人間を大量に育てる事になるのである。
子供達が素朴に疑問に思う、なぜ、なぜという問いかけにこそ問題意識の萌芽があるのである。
その素朴な疑問を頭から否定しておいて、何でも疑ってかかれと教えたら、疑る事しか覚えない。それは本末転倒である。
何でもかんでも疑ってかかる癖に、問題を問題として認識できなければ、それは人格を破綻させてしまう。
社会に出たら、多くの問題は、答えが一つではないか、或いはない。それが常識なのである。
学校の常識は通用しない。学校は、それを百も承知なのである。
承知しているから、閉ざされた空間で教育しようとするのである。
教育は純粋な事であり、不純な要素が混入しては困るのである。
謂わば無菌室で子供を育てるような事である。
それでは健全な問題意識は育たない。
社会に出ても、与えられた問題を予め用意された答えを求めて解こうとする。
それが如何に空しい徒労だと言う事を知っていても・・・。
そして、それが人類の叡智を鈍らす事だと言う事を解っていても今の教育の仕組みを改めようとしないのである。
本当に大切なのは、問題意識である。
自分の手で、自分が感じる素朴な疑問に則って自分なりの問題を設定する事なのである。
問題は、基本的に質問形式によって設定される。
故に、質問の内容をよく確認し、或いは、質問を如何に設定するかが問題を解く鍵を握っている。
学校では、問題は予め設定しておいてそれを予め設定されている解答を導き出す事しか教えられていない。
学校教育にどっぷりと浸った者の悪癖は、いきなり答えを出そうとしたり、或いは、答えを導き出そうとする事である。
しかし、現実の社会は、問題そのものが曖昧であったり、問題を解く為の条件や情報が整っていない事の方が圧倒的に多い。むしろ、それが常態なのである。
問題を解く為の条件や情報に不備があれば、先ず、その不備を補わなければならないし、場合によっては問題そのものを設定し直す必要もある。
絵描きの先生が嘆いておられた国立を優等な成績で卒業した者は、絵を核技術はすごいが、ところが何を描いたらいいかが解らない。先生が課題を与えないと絵が描けないんだと・・・。
社会の問題は、合目的的なことである。問題を解く為には、なぜ、問題を解かなければならないのかその目的を確認するところから入らなければならない。
それに対して、学校の問題は、答えが予め準備され、問題を解く事が目的とされている。
しかし、社会に出たら自分達で問題を見つけ出し、自分達で解決する事が求められるのである。
現実の社会では、問題を如何に設定するに大部分勢力を割かれるのである。意味もなく問題を解こうとしても徒労に終わるだけである。
そして、問題の設定の仕方によって答えも違ってくるのである。
大体、導き出される答えも一つである事は少なく、答えそのものが予測ではない事の法が多いのである。
世の中では、予め問題が設定されていてしかも、予め答えが一つだけ用意されているというような事象はきわめて希なのであり、仮に、答えが予めわかっているとしたら、問題そのものが成立しなくなる。
これは科学的問題も例外ではない。
何が問題なのかを見定める事なく、いきなり解答を求めようとする事なのです。それでは物事の本質を理解する事なくただ上っ面の帳尻を合わせただけの小手先の解決で終わってしまう。真の目的も解らずに、自分達が、どこにいて、何をやっているのか、ゴールも見えないままに闇雲にただ突き進んでいるのに過ぎなくなる。それは問題を解決すると言うよりかえって危険な状態にしてしまうだけである。
問題意識は、質問形式で表される。
故に、問題意識は最終的に疑問符が問題となる。
実務では、五W二Hと、なぜ、何を、誰が、何処で、何時、どの様に、どれくらいの予算でと言うように立てられる。
この様な疑問の形式が問題の前提を形作る。
問題は、前提があって成立する。
前提が明らかにされなければ問題は、成り立たない。
答えにもいい答えと悪い答えがあるのが通例であり、いい答えを出す駄目には、適切な問題設定がされなければならない。
なぜならば、答えは、問題の前提となる状況や条件によって制約されるからである。
問題は基本的に質問形式を取る。
故に、自分か何を質問されているかを理解する必要がある。
問題を解く為には、一般に手続きや手順がある。
問題を解く為には、一定の道筋や順番と言った過程があるのである。
それを組み立てる事が最初に求められる。
道筋や手順を踏まないで解答に近づく事はできない。
つまり、問題は論理的にしか解けないのである。
だから、問題を解く為には、問題の内容をよく確認し、その目的を明らかにした上で、前提となる条件を正しく理解しなければならない。質問者の意図や目的が重要であり、質問者の真意を理解しないと問題を正しく解く事はできない。
むろん、その質問者には、自分も含まれている。
問題は合目的的な事象なのである。
問題そのものにも順序手順がある。
着手する場所も一定ではない。
先にも言ったが学校教育を長く受けた者の悪癖は、問題をよく理解しないでいきなり、問題に着手しようとしたり、答えを出そうとして焦る事である。
学校の試験と違い、短い時間で解けるような問題は、一般社会の問題では少ないのである。
回答を得る為には、短くても一ヶ月や二ヶ月、一年、二年、中には、一生かかっても解けない問題なんてざらにあるのである。
問題を確認したり、設定もせずにいきなり答えを出そうとしても、土台から無理なのである。
質問者は結論を求めているのか。
それとも今やらなければならない事は何かと聞いているのか。
質問者の質問の目的や意味を理解せずに答えても、答えになっているかどうかすら解らないのである。
場所を聞いているのに、時間を答えても意味がないし。
やり方を聞いているのに、結論を答えても意味がない。
答えを出す為の必要な情報が揃っていなかったり、整理されていなかったり、又、やっておくべき事をやっておかなかったり、打ち合わせをしていないとその時点時点で一定の要件を満たしておかないとその時点での答えを導き出す事ができなかったりもする。
それに、現実の社会では、一人で解ける問題は少ないのである。
又、一人で解ける問題は問題ではない。
この点も学校教育を長く受けると錯覚があり。
問題を一人で解こうとする傾向が強くなるのである。
しかし、現実の問題の殆どは集団で組織的に解く事が殆どなのである。
故に、質問の真意、即ち、問題の目的が重要となる。
質問者の立場、質問された時の状況、質問された時や段階において同じ質問でも質問の真意が変化してしまう事がある。
問題というのは本来合目的的な事なのである。
どうすると聞いているのか。
答えを出せと言っているのか。
それすらも理解せずにいきなり結論を導き出しても正解は出せない。
先ず自分は何を質問され、何を求められているのかをしっかりと確認し、理解しておく必要があるのである。
だから同じ質問、問題でも常に、前提条件を確認する必要が出てくるのである。
質問そのものもいきなり結論を求めるような事ばかりではなく、問題を解く為の方針は何かとか。どの様な段取りで問題を解くのかとか。問題の目的は何かなどと言った答えそのものと言うより、答えを出す為に関わる事象に関する者も多くある。むしろ、一つの問題を解く為には、無数の問題が隠されているのが普通なのである。
方針を聞かれている時にいきなり結論を言えば怒られるに決まっている。
現実の問題には、問題を設定された際の、時と場合と場所が関わっているのである。
時間と場所と場合が違えば正解も当然変わる。直前に正しいとされた事でも、状況が変われば間違いになる事もある。
いつまでに、何を、誰が、どの様にするのか。
目的は何か、その問題を解く為に、何をしなければならないのか。
どの様な情報が必要なのか。何を調べなければならないのかと言った前提となる問題を解く必要があるのである。
問題を解く為には、与えられた前提条件や状況、情報が不可欠であり、一定の要件を満たしていなければ問題そのものが成り立たないのである。
しかし、それでも答えを出さなければならない時もあるのである。
与えられている情報や手段が十分とは限らないし、また、不必要な事まで含まれているのが一般的なのである。だから、情報や手段を目的に応じて選別する必要もある。
この様な事は一切学校では教えないし、又、教えられない。
だから、学校で与えられる問題というのは、現実の社会では極めて特殊な異常な事柄である事を忘れてはならない。
だから、学校で教わった事の多くは実社会では役に立たないのである。
学校で教えられるのは、虚構に過ぎないのである。
自分が、最近の傾向として憂慮しているのは、要所要所の人間の問題のとらえ方である。
何が問題なのかを見定める事なく、いきなり解答を求めようとする事なのです。それでは物事の本質を理解する事なくただ上っ面の帳尻を合わせただけの小手先の解決で終わってしまう。真の目的も解らずに、自分達が、どこにいて、何をやっているのか、ゴールも見えないままに闇雲にただ突き進んでいるのに過ぎなくなる。それは問題を解決すると言うよりかえって危険な状態にしてしまうだけである。
急がば回れと言う事もあるのである。
学校教育の問題点は、ただ問題を解く事ばかりに照準を当て、問題そのものを度外視している事である。問題の核心部分は、問題そのものの中に隠されているのである。
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