教育の理想を求めて
威 厳
威厳という言葉は今は死語である。
現在の学校教育は、反権威、反権力で凝り固まっている。
権威なんて言おうものなら袋だたきにあってしまう。
兎に角、権威とか権力は、軍国主義なのである。
これは理屈でも何でもない。
兎に角、太平洋戦争を引き起こしたのは、軍国主義者であり、
それに追従した権威主義者、権力主義者だと言う事になる。
更に、占領政策や組合の論理が他に発言を許さない。
兎に角、権威というのは悪の権化なのである。
そして、何でもかんでも、自由と平等でなければ許せない。
しかし、何が自由で、何が平等なのかを明確にしているわけではない。
要するに感覚なのである。
感情的に権威とか権力は許せないのであり、
力に結びつく事は、何でもかんでも許せないと言うだけである。
何が何でも許さないのである。
だから、威厳なんてとんでもない事である。
しかし、世の中は違う。
こう世の中と学校の中が異質だから、子供達は戸惑うのである。
我々の学生時代でも戸惑うのであるから、今はもっと急進的であろう。
ところが、学校という処は、権威によって保たれてきたし、今も、保たれている。
学校から権威が亡くなり、先生に威厳がなくなれば、教室は維持できない。
そして、現実に、殆どが、学級を維持できないでいるのである。
学級を維持できているのは、進学校が進学という目的によってかろうじて維持しているのである。
戦争に負けて、学校の権威は地の落ち、先生の威厳は保てなくなった。
そこから学校教育は放浪し始めたのである。
学問は権威によって保たれる。
皮肉な事に、進学校や塾が学級崩壊を免れているのは、進学率とか、カリスマ教師とか言った権威なのである。
そして、カリスマ教師にはそれなりの威厳がある。
ところが、目的が明確でない普通の学校では、秩序や統制は保てない。
なぜなら、権威や威厳がないからである。
権威や威厳を馬鹿にするが、権威や威厳を保つのは大変なのである。
権威や威厳を否定したところで、上下関係や師弟関係も否定された。
故に、生徒も先生もないのである。
確かに、ただ先生だから、言うなれば、教職員になれる資格があるから尊敬しろというのはいただけない。
しかし、誰からも尊敬されないのでは人を指導する事など最初からできやしないのである。
それは夏目漱石の坊ちゃんの時代から変わりない。
だから、以前の先生というのは威厳を保つために相応の努力をしなければならなかったのである。
今は気楽なもんである。気楽な分だけ教室を統治する事ができないのである。
先生が先生としての仕事を誠実に実行しようとしたら、生徒が先生を先生として受け入れなければならない。
誰も尊敬できない人間の指導など受けないのである。
しかし、いくらそれを言葉で言っても、言葉で言い表したとしても生徒達を納得させる事はできない。
生徒達を納得させる事ができるとしたら、それは、威厳である。
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