教育の理想を求めて
今の教育は決めつけが多すぎる。
今の学校や親は、決めつけが強すぎる。
例えば、会議では、何でもかんでも反対しなければならないとか。
何でも、鵜呑みにしては駄目よ、疑問を持たなければならないとか。
批判的でなければいけないとか。
皆と同じ事をしていては駄目だとか。
個性的でなければならないとか。
迷惑をかけてはならないとか。
真似してはいけないとか。
子供達は真に受けてしまう。
どれもこれも突き詰めてみると自分というものがない。
だから主体性が持てないのである。
だから、何でも意味もなく反対したり、
会議で意見を聞かれたら反対意見だと思い込んでいる奴がいたり。
彼にとって意見というのは反対意見なのである。
また、ひねくれた質問ばかりして、人を信じたり、素直になれない子が増える。
あまり昂じると何かの陰謀ではないかと思えたりもする。
もっと一人ひとりの子供や子供の置かれている状況を見る事なのである。
反対しなければとか、疑らなければという事ではない。
是々非々の問題なのである。
子供は存外素直なのである。
だから、子供は親の期待に応えようとし、或いは、学校の先生の考え方に染められていくのである。
それでなくとも学校は何でもかんでも黒白を付けないと気が済まないところがある。
まだ、決定論がないような科学の命題でも、学校には明確な答えがある。
そして、その明確な答えに基づいて試験をする。
民主主義や人種差別、性差別のようなデリケートな問題、思想的な問題でも予め答えが用意されている。
今の学校は、人の生き方や道徳のような事まで予め答えを用意し、それで採点しようとしている。
しかも、それが如何に世間からかけ離れたような事でも、常識だと言う事で押し通そうとする。
他人の批判も赦そうとしない。しかもそれを言論の自由とか、平等の名の下に正当化する。言論弾圧のような事をあたかも言論の自由であるかのようにである。
子供達にも子供達の人権があるし、父兄にも人権はあるのである。
前衛思想的な事で他を抑圧する事は独裁者のやる事である。
反対に、自分達が責任がおえない事に出会うと責任を回避しようとして曖昧な態度に終始する。
言葉狩りのような事例に出会うと誰がこの言葉はよくて、この言葉は駄目と判定しているのか気になる。
批判され、糾弾される側の人間は明確なのだが、多くの場合、批判する側の人間は不明確で、匿名なのである。
この点は不思議である。
誰がどの様な意図、真意を以て糾弾しているのかも解らないまま、いつの間にかそれが世論だといってまかり通る。その方がずっと不気味である。
否定される側が権力者だというのならば、否定する側も権力者である。しかも闇権力のである。
その様な意味では、誰が、学校を支配し、誰が学校を操っているのか。その方がずっと気になる。
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