進化か、回帰か
世の中は進化しているのか、退行しているのか
学校教育というのは何でも黒白を付けたがる。
学校は、基本的人権のような高度な概念に対しても黒白のハッキリした答えを用意している。
そして、予め用意した答えと寸分違わぬように答えないと×になる。
しかし、現実の世の中は、黒白がハッキリしないことの方が多い。
黒白がハッキリしないところを黒白を付けるのが決断である。
だから、第一感を鍛える。
それは学習と言うより修行である。
本来、数学も然りである。
現実の数学は、学校で教わる数学と違い、割り切れない問題で悩み発展してきたのである。
ところが世間の人は、学校で教わる数学を基にして世の中数学通りには行かないんだよと教訓を垂れる。
そして、数学は役に立たないと決めつける。
世の中、上手くいかないのは学校で教わる数学であって本来の数学ではない。
本来の数学は現実の問題を解決するために考案されたことであって役に立たない数学など意味がなかったのである。数学が高度に発達し、現実の問題から遊離した部分を生み出したことで、直接、現実に役立たない部分があると言うだけで、数学は現実の生活になくてはならない事に変わりはない。むしろ、経済も科学技術も数学抜きには成り立たないのである。だから学校でも数学を教えるのである。
学校で数学を習ったら数学が役に立たなくなったというのでは、逆効果である。
そして、本来の数学は割り切れない部分を嗚呼だこうだと試行錯誤する事で成り立っているのである。
教育によって数学の本来の役割が理解できなくなったとしたらそれは教育が進化したといえるであろうか。むしろ教育は退化しているのではないだろうか。
ドンドン、ドンドン教育は陳腐化しているように思えてならない。
ところが、今の人は、教育だけでなく、何でもかんでも進化していると思い込んでいる。
しかし、それ程、進化というのは絶対的なことなのであろうか。
現代人は進化を前提として考えているところがある。
人間は絶え間なく進化し続けているという事を前提としている。
つまり、進化論を前提としているのである。
しかし、人間は本当に進化しているのだろうか。
むしろ人間は馬鹿になっているように思える事もある。
確かに、物質的には進化しているように見えるが精神的には幼くなっているようにも見える。
自分は、人として人の信頼を裏切る人間の心は解らない。
むろん現象としては解る。
自分は、過去にも何に人も騙されたというか、
毎年のように人を不祥事で自分の手で辞めさせている。目の前ではおべんちゃらを言うのに陰口を聞く連中は沢山いるし、不倫の話なんてしょちゅう聞く。愛する人間を裏切ったところでたいした事はないと現代人は考えているみたいだ。そういう連中は、愛なんて絵空事だと思っている。
そういう考え方や風潮がある事は、止める。ただ、自分は、人としてやっぱり解らない。
何がそうさせるのか。一時の感情とか、欲望とか。
でも、人間には意志がある。
だから、そういう連中に出会ったとしても腹を立てるとか、立てないとか言う前に解らないと言うのが本音である。愛する者を裏切るのも信頼する友を騙すにしても自分の意志に依るからである。
だから、腹が立つとか言うのではなくて、どうしていいのかもてあますという方が正しいかもしれません。
馬鹿な奴だとしか言いようがない。
僕にとって心からの友は心からの友なのである。
彼等はどんなに離れていても決して僕を裏切りはしませんから。
やっぱり人の信頼を裏切って平然としていられる人間の心は解らない。
解ろうとも思わないけれど。
世の中は、進化しているのであろうか。退行しているのであろうか。
近代は、進化論、即ち、進化を前提としている。
しかし、かつては、圧倒的に退行しているという考え方が支配的だった。
つまり懐古主義である。
ユダヤ教だって、キリスト教だって、イスラム教だって、人類は理想郷を追い出され、終末に向かって進んでいるという事が前提である。原罪である。
儒教は、過去の世界を手本とし、それから見て現代は乱れているとする。
仏教も末法思想が根底にある。
こう考えると近代以前の人間は、世の中ドンドン悪くなる一方だと考えていたように思える。
それに対して、現代は、進化を前提としている。
成長を前提とすべきか、衰退を前提とすべきか。
成長を前提とした方が良いように思えるが、そうとばかり言えないのが現代の国際情勢である。
進化と見るか、退化と見るか。
それは未来を楽観的に捉えるか、悲観的に捉えるかの差のようにも思える。
未来を楽観的にぱかり考えていたら世界はよくならないのである。
だからといって悲観的ばかり捉えていてもよくならない。
そこが問題なのである。
世の中の流れをどう捉えるかによって物事に対する考え方も随分と違ってくる。
進化として捉えるか、退化として捉えるかが典型だが、
変化していると考えるか、変わらないと考えるかによっても変わってくる。
世の中が進化しているというのならば、なぜ、現代社会には、釈迦やキリスト、孔子、ムハンマドのような人間は生まれてこないのだろうか。
固定を凌ぐような哲学だの文学だのが生まれてこないのだろうか。
進歩しているというのならば、歓楽街やカジノが隆盛を極める反面で、倫理や道徳が衰退し、信仰は廃れるのであろうか。
世の中金だ。とどんなあくどい手段で金持ちになったとしても金さえあれば成功者だともて囃す。そんな世の中が昔より良いと言えるのであろうか。
高層ビルを建て、開発によって自然環境を破壊し、人間が住めないような状態にする事を進化と言うのであろうか。
避妊や人工授精の技術が発達し、不倫や変態行為が横行し、純粋な恋愛や家族が崩壊する事が進化なのであろうか。
不倫は文化なのであろうか。
無秩序や不正を肯定する事を文化というのか。
理性を侮る事が進化なのか。
進化したというのならば、
なぜ、核兵器や生物化学兵器のような物が世界中に蔓延するのであろうか。
立派な施設を作って年寄りを収容する事を進歩というのであろうか。
年寄りや弱者に対する思いやりをなくす事が進化なのであろうか。
人間の苦悩や悩みの何もかも病気で片付けて、薬で治そうとする事が、医療の進歩なのであろうか。
それを進化というのであろうか。
人の心をなくす事を進化というのであろうか。
進化か退化かは、変化か安定かの問題にも結びついている。
変化しなければいけないのか、安定を求めるべきなのか。
安定した生活は許されないのか。
変わらなければいけないのか。
激動は、争いも生むのである。
平和は安定が前提でもある。
平穏を求める事は間違いであろうか。
だからこそ、昔の人は、懐古主義に傾いたのではないだろうか。
静か、動か。
安定は、静を求め。変化は動を促す。
現代社会は、進化と変化が結びつき。進化や変化を善だとしているように思える。
そして、何でも古いものや過去を否定している。
それは一見未来を肯定しているように見えるが、実際は、曖昧模糊とした未来に全ての解決を押しつけているようにすら見える。そして、何事も自分達の手で解決をしようとせずに先送りしている。
進化の問題点は、変化のみを善としている事かもしれない。
世の中には変わらない事、変わってはならない事もある。
進化や変化が善となると古い事や年老い者を軽視し侮蔑する風潮にもなる。
事の正否善悪美醜に老若男女の別はないのである。
古い事を理由に否定するのは行き過ぎである。
また、若い者だけに可能性があるわけでもない。
そこに易の面白味や可能性がある。
易には簡易、変易、不易があり、その調和を重んじるという思想がある。
そこにこそ心理が隠されているように思える。
神は、進化としているのか、退化としているのか。
それは窺い知れない。
神はいずれの考え方をも超越しているのだろう。
神にとって進化か退化などどうでも良い事なのである。
つまり、進化と捉えるか、退化として捉えるかは、人間の意志の問題なのである。
世界は成長発展しているのか、それとも、老い、そして衰退しているのか。
どちらの見方も成り立つのであろう。
人の一生は、成長だけではない。
いずれは老い、衰退していく。
人生の喜びは、若く成長している時にだけ許されているわけではない。
老い衰退していく時にも喜びはある。
会社を経営していく時、老い衰退していく人達にこそ喜びを与え続けていけるか、どうかが重要なのである。
人は生きているのである。
会社経営は、なんだかんだ言っても行き着くところは人事である。
人の事は、冷厳たる法や規則と生々しい現実との葛藤である。
人の世界は、嫉妬、やっかみ、怨恨、見栄や外聞、情念、欲望、劣等感というドロドロとした感情の坩堝であり。
人は、一人ひとり、違った生々しい現実を抱えている。
それ故に、人事は、一律に決めてかかる事はできない。
しかし、法や規則は非情である。
万人に一様に働かなければ効果は期待できない。
そして、どこの社会には、世の中や組織を動かす一様にして厳然とした決まり事、掟がある。
非情な法則や事実と不確かで生々しい現実。
この二つの現実の板挟みにあって指導者は苦しみあがく。
条理と不条理の谷間に人間の営みはある。
それが義理と人情を創り出す。
捕らぬ狸の皮算用。
商売だって思い通り儲かるとは限らない。
しかし、儲からないといって出る物は出る。
儲けは不確かだが、出費は確実なのである。
儲かれば問題がないが、思い通りの収益が上げられなければすぐに金につまる。
金がなければ愚痴もでるし、不満も募る。
経営者は金繰りに追い回される。
愚痴や不満なら良いが、金が払えなくなれば、持てる物全てを失う事にもなりかねない。
そうなると親も子もない。
妻も妻でなくなる。
愛なんて、金の前には儚いもの。
金の切れ目が縁の切れ目である。
それが現実である。
金じゃあないと良いながら、最後には金の問題になる。
人の事というのは、一人ひとりの人生の一切合切を引き受けていく事に相違ないのである。
それを忘れたら会社の経営は成り立たない。
人事というのは、人の業(ごう)や柵(しがらみ)の絡み合った結果なのである。
金に捕らわれれば金の亡者となる。
楽観的に未来を信じる事ができれば良いが、金は未来を悲観的にする。
金の恨みは晴れないのである。
兎角、人の一生は、
裏切り、背信、嘘、憎悪に怨恨、絶望に挫折に満ちている。
人を信じたくとも信じさせてくれない。
だから神を信じるしかなくなるのである。
思い通りに行かないのが人生。
現実は理屈だけでは片付かない。
いくら筋か通っても金がなければ、何にもならない。
しかし、肝心要にある事は金では解決ができないのである。
人の心は金では買えない。
こんな不条理があるか。
会社経営は、部下の人生の一切合切を引き受ける事なんだと僕は思うのです。
特に、うちのような会社は、訳ありの人間ばかりですから。
殆ど優等生なんていませんよね。
会社は、社会の縮図というか、だから、社長なんて聞こえは良いですけれどゴミためのようなものですよ。
駆け落ちして行く当てのない人間を何人も雇った時もある。
パチンコに入れあげた上、会社の金を使い込み、挙げ句に妻子を捨てていった奴、そいつは組合の委員長とくる。
いかがわしい新興宗教に入って同僚を誘い込んだ奴。
ほとんど病気としか言えない様な女たらしもいる。何度ばれても浮気が絶えない奴。懲りないねとしか言いようがない。
同僚の女房や女子社員全員に手を出した奴とか、韓国の女に入れあげて会社の金を使い込んだ奴とか・・・。
同じ女を共有している連中。
不幸な人間は、幸福な人間を見ると不幸にしようとする。
だからこそ、社員を皆幸福にしようと思う。
そうしないと会社全体が不幸になる。
経営者仲間でも、金もないのに、見栄だけで生きている奴もいるし、博打が好きな者もいる。何かと海外へ行っては散財する者もいる。好きだねとしか言いようがない。
なぜと思いますけど、そういう人間の業みたいなものを一切合切、背負い込んでいくしかないんですね。
だから、自分もそういう世界に足を突っ込むと奈落の底に落ちていくしかない。
それでいて、おまえ俺の酒飲めないのか、据え膳食わねばの世界でもありますからね。
大将を守る為には体を張らなければならない場面もある。
修羅場ですよ。僕の部下は、よくついてきてくれると思うけれど、それでも、足りないところはいくらでもある。
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