恩義・信義


日本は恩義、信義の国である。

日本人の価値観の根本は恩義、信義にある。
日本は、恩義・信義の国である。
よく日本は武士道の国だというが、武士というのは、日本の中では少数派に過ぎない。
大体武士道というのは支配階級である武士の思想である。
しかし、日本を構成しているのは、武士だけではない。
圧倒的な大多数を占めている農民や商人と言った庶民である。
庶民がどの様な価値観に従い、何を信じているかそれが本来の日本人の価値観の中核である。
日本人の価値観の中心が恩義であり、信義である。
日本の強さの秘密は、恩義や信義にある。
だから、日本に敵対視する国や勢力はこの恩義、信義を日本から奪い取りたいと考えているのに相違ないのである。
それ故に、恩義や信義を卑しめて日本人を辱めたのである。
しかし、恩義や信義が失えば日本は日本でなくなってしまう。
最近この恩義信義が失われつつある。
それは、日本が戦争に負け、教育界や言論界に日本的な考え、特に、恩や信と言う事を真っ向から否定する勢力に支配されたからである。
恩というのは、困ったり、苦しんでいる時に、世話になったり、助けてもらった人に対して報いたいという感情である。
この感情が日本人社会を律しているのである。
それは、キリスト教やイスラム教が神への信仰を基盤にして成立しているようにである。
故に、恩や信というのは日本人の価値観の底辺にあって日本人の行動や生活を律しているのである。
和の国という人がいるが、和という概念では、人の社会を律する事はできない。言い換えると和と言う概念によって主体的、又、積極的な行為行動を触発する事はできない。なぜならば、和というのは、状態を指した概念に過ぎないからである。
日本人の行動を触発するのは、恩義であり、信義である。
それが、忠誠心や親孝行という概念の基となっているのである。
この忠と孝という思想は中国の忠と孝とも必然的に違ってくる。
そして、日本人の中核にある忠と孝という思想を否定する為には恩や信という概念を根底から否定する必要があるのである。

武士道が日本の支配階級の思想なら、儒教は中国の支配階級の思想である。
中国人の思想も根本儒教にあるのではない。むしろ、任侠にある。
任侠というのは侠気(おとこぎ)であり、義侠心である。
義侠心というのは、困っている人や苦しんでいる人がいると放っておけないで、体を張って助けるという精神である。ここから仁義礼知忠信孝悌の道徳が形成されるのが中国である。そして、その根本は、中国では、血族である。

日本人は恩である。
恩は、当然、親兄弟、師が中心となる。自分が助けを必要とした時に世話になった人だからである。
しかし、必ずしも血族というわけではない。ある種の運命共同体が基盤となって形成される。それが家である。

我々は、子供の頃か恩や縁について教え込まれる。
恩知らずと言われればかつては家にはいられなくなる。
だから恩を返す為には必死になる。
だから至る所に恩によるネットワークが張り巡らされる。
それが、柵(しがらみ)となって義理と人情を生み出すのである。
かつては、恩師がいてね仲人がいて、世話役がいた。そういう人達への恩が目に見えない形で社会を律していたのである。

この恩や義理も悪用すれば、人々を縛り付ける口実となる。
しかし、上手く活用すれば、絆や関係を深めるのに役に立つ。
また、人間の社会には、人と人とを結びつける規範が必要である。
日本には、神に対する信仰や血族に対する服属という規範がない。
だからこそ、確かな信仰や血族の関係に替わって日本社会では恩や信義が決定的な役割を果たしてきたのである。

恩や信義も形骸化し、諸々の柵に結びつくと人間を縛り付ける因習や仕来りになる。
しかし、だからといって恩や信義の元々の働き、本来の働きを否定するのは行き過ぎである。頭から否定すれば、日本人社会の基盤が崩壊し、日本という社会が成り立たなくなる。
だからこそ、恩義や信義の本来の意味を明らかにしておく必要があるのである。

日本は恩を根本とした社会である。

日本人にとって恩は、信仰と同じような働きをしている様にも見える。
恩というのは、世話になったり、助けられたり人に対して何らかの形で報いなければならないという感情である。

欧米人の信仰か神との契約を基調としているのに対して、日本人は、人と人との情、つまりは人情と義理を基調としている。

恩というのは情なのであり、契約のように明確な取り決めや義務と権利に基づいているわけではない。ただ、お世話になった、助けてもらったという思いや気持ちという曖昧模糊とした感情に基づいているのである。
そして、恩は、助け合いの精神に基づいている。助け合う事を前提とした時、互助の精神が大切となる。つまり、お互い様であり、相互関係を基本とし、一方的関係を基本とした事ではない。

だからお互い様が前提となる。そうなると一方的に助けられたり、世話になった時、お返ししなければならないという事になる。助けられっぱなしでは身勝手な事になり、規律違反になるのである。

この様な互助精神から、貸し借りの関係が成立するのである。

だから日本では、挨拶代わりにお陰様で、お世話様、お互い様と声を掛け合う。

博徒の世界には、一宿一飯の恩というのもある。
そんなヤクザな世界にまで恩という思想は浸透しているのである。

又、犬だって三日飼えば恩を忘れないとも教えられる。

裏返せば、恩知らずは、ヤクザや犬畜生にも劣ると言う思想である。
日本人はこの恩という思想を自覚していない。
それ程深いところで日本人の意識に根付いていると言える。

この様な発想が、忠犬ハチ公の話の根底にあると考えられる。
日本以外では、犬と飼い主の愛情だけで捉えるが、日本は、そこに恩という思想が絡んでいるのである。

恩というのは、その人個人が、相手に主体的に感じる感情を前提とし、強要される事でもできる事でもないとされる。
故に、恩に報いると言う事には、限りがない。
一度恩を感じたら恩を返すまで際限がないのである。

だから、恩を施すという行為も生まれるが、ただ、恩を感じるのも恩返しをする事も、あくまでも、当事者の問題だとされる。そこに本音と建て前という考え方が生じる余地がある。
つまり、恩を感じる感じないは、当人の問題だというのが建前だけれど、本音では、恩を感じない者は、人でなしだとという事である。
何に恩を感じるかは、その人その人の感性に委ねられているのであるが、恩知らずかいないかは別の基準が働いている。
だから、あまり恩、恩と他人に恩を強要すると恩着せがましいと厭がられるし、反面に、あいつは恩知らずだとなると信用を一遍に失う。
強制されて恩を感じるわけでもなく、何らかの客観的な基準があるわけでもない。
ただ、助けてもらったり、世話になった時、幾ばくかの恩を感じないようでは、恩知らずの誹りは免れない。
だから、常日頃から恩に報いるという姿勢が問われ。お中元、お歳暮と言った贈答という習慣を生むのである。
日頃お世話になった方に心ばかりの物を定められた時に贈るという習慣である。
この習慣はなかなかなくならない。それは恩返しという意味が含まれるからである。
お中元、お歳暮を贈らない者は恩知らずだと言う事である。

この恩という概念の上に忠や孝がある。
それが純粋な儒教との違いである。
恩を感じた相手に絶対的な服従が求められる。
日本人的な忠義、忠誠心の本となる。

それが日本人なのである。
しかも、その恩は親子代々引き継がれていく場合すらある。

こう考えると究極的には、神の恩になる。
自分を生かす存在に対する恩。
自分を自分らしく存在させる神に対する恩である。
故に、恩は、日本人社会にあって信仰の通じるのである。

良い意味でも悪い意味でも、恩という思想が日本人の結束力を高め、日本人の活力の源となってきた。
ところが近年、その恩という思想が急速に薄れてきたいるように思える。
それが日本の国力の低下にも繋がっているのである。

恩というのは、義理人情の根源でもある。
義理や人情は、人と人との関係の中から生まれる感情である。
これは、理屈ではない。
そして、義理と人情こそが日本人の魂の拠り所なのである。
恩は命に代えても護らなければならないことなのである。
そこから心中ものや忠義ものが大衆受けするのである。
この様なメンタリティは外人にはなかなか理解されない。

日本人の社会から恩が忘れられれば日本は日本でなくなる。
恩があるから日本はまとまってきたのである。

かつては、恥知らず、恩知らずというのは、全人格を否定されるのと同じだった。
背信行為も許されない。

この様な日本人の思いは、最後には、確固とした信仰のようなことに変貌する。
恩はどんな犠牲を払ったとしても返さなければならない。

仇討ちや復讐という行為をも正当化する。
しかし、仇討ちは復讐は、恩返しにはならない。

恩は、かつて愛国心、軍国主義にも利用された。
命に代えても恩には報いなければならない。
その思いが日本人には強いからである。
それが、他国との決定的違いである。

しかし、恩は強要できる事ではないし、何に対して恩を感じるかも人によって違う。
恩を強要すれば恩は恩でなくなる。
恩は、その人が感じるから恩なのである。

恩を愛国心に結びつけて犠牲を強要する事は、恩本来の意味を逸脱している。
それを以て恩という思想そのものを否定するのは本末転倒である。
恩は自由意志なのである。

恩が薄れた今日の日本で恩に替わって人々の行動を支配しているのは金である。
現代では、恩というより、最後は金でしょという方が洒落ているのである。
恩というと今時の人は今時の言葉でダサイという。

神様だって御利益によって計る。
神様も金儲けのためのネタに過ぎない。

要するに金が全てだと割り切った方が真実らしく聞こえるようになったのである。
金じゃあないよというと、何をきれい事を言ってるんだと反論する。
学校でも恩なんて教えない。金だよと教えている。
マスコミもである。こういうことを考えるとその背後に何ものかの意志を感じる。
要するに日本の社会を滅茶苦茶にし、日本人を駄目にしたいと考える勢力の意志である。

金儲けは生きるための目的にはならない。
人はパンの為に生きているわけではないと教えられた。
ところが、現代の大半の人は、金の為に生きている。
しかし、金は金てある。
金が全てになった時、生きる目的は失われるのである。
金に魂を抜かれた抜け殻のような人間が街に溢れているのである。
金儲けを人生の目的とするのは、金の亡者である。
金のその物は、恩の対象にはならない。
恩を感じるのは、金の背後にある何らかの意志に対してである。
金が前面出てしまえば、恩は忘れられるのである。
金儲けは手段になり得ても目的にはなり得ない。

恩は日本人社会の核なのである。

恩には親の恩、師の恩、恩人、主の恩、国の恩等沢山ある。
沢山対する人への思いが重層的に重なって社会への忠義へと発展する。

恩は現実の人間関係から生じるのである。
それが日本人の現実主義に結びついている。
つまり、現実の人間関係が倫理の根本を形成しているのである。
それだけに日本人の倫理観は生々しいのである。

恩知らずになれば日本は、人間関係を支えきれなくなる。
日本人にとって恩は一種の信仰なのである。

大切にするのは、人の真心、誠。
言葉などとうでも良い事である。肝心なのは、本心である。
己の良心に対して恥じる事がなければどうでも良い事なのである。
それが日本男児だと思う。
だから、誰がどう言おうとどうでも良い。
大切なのは誠である。
天に恥じる事さえなければそれで良い。
廉恥である。
その廉恥が極まったところにあるのが恩である。
恩は誠なのである。忠誠心なのである。

恩義・信義に反するのは恥なのである。
ここに日本人の恥の文化がある。
恩義や信義に報いる事を知らない事は、
恥を知らない事なのである。
裏返せば恩義や信義に報いる事は、
恥を知る事なのである。

日本人として最後まで守らなければならないのは恩義信義である。

自分は、働いている人達を幸せにする為に会社を経営しているのだと思う。
働いている人達を幸せにすることは、お客様や取引先、地域社会に貢献することも意味する。
そこに日本人の商売道の根源がある気がする。
社員旅行も運動会も士気高揚の手段ではなく。真心である。
働く者達への感謝、恩返しである。
それが日本人なのだと思う。
僕の幼い頃、道にはぐれた時、社員総出で探し出してくれた。
僕は現場の人達に育てられたのです。
どんな高価な料理を食べるより、現場の人間と同じ釜の飯を食べた時の方が美味しい。
変な女性に囲まれて飲む酒より、現場の人間と飲む安酒場の酒の方が美味しい。
だから、僕は、現場の人間に対する恩返しの為に働いている気がするのです。
それが日本人だと思うのです。
だから金儲けにも熱心になる。
金を儲けなければ、働く者達に報いる事ができないからです。
金儲けの為に、働く人達が不幸になるのならそれは本末転倒だと思う。
金儲けは手段なのである。
目的は、働く人や社会に対する恩返しである。
それが日本人の文化である。

もっと人間は幸せになる為に貪欲であるべきだ。幸せになりたくない、幸せになりたくないと言って生きている人が沢山いる気がしてならない。
もっともっと僕は恩返しがしたい。
それが日本人なのである。



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