師(先生と呼ばないで)
師とは
教育者にとって現代は受難の時代だと言っていい。
鬱病の罹患率も高いと聞く。
今の学校には、禁忌が多すぎる。あれはしてはならない。これもしてはならないと、先生は、いろいろな制約を受ける。極端な話を教科書に書かれた以外の事を指導してもならないみたいなところがある。それでは先生なんてやっていられない。ノイローゼにもなる。
しかも、かつてのように生徒は、先生を尊敬していない。先生という権威を認めないのである。
こけでは、生徒が先生のいう事を聞かなくなるのも道理である。
学校で禁じられている事の多くは、敗戦を機に始まった事が多い。
しかし、なぜ、戦後、禁忌として全面的に否定されたのかその理由は曖昧な事が多い。曖昧なままにただいけない事はいけない。或いは、それが民主教育であるとか、封建的だから駄目と最初から決めつけられている。
例えば、なぜ、体罰はいけないのか。なぜ、起立、礼と言った号令はいけないのか。予鈴はいけないのか。よく理由がわからない。それも父兄の意見や生徒の意見は尊重されずに、得体の知れないところで決めている。その得体の知れない部分に触れる事さえ許されないのである。
これはおかしい。
学校で行われる事は、一部の教育関係者が秘密裏に、或いは、暗黙裏に決めるべき事ではない。それこそ、封建的であり、独裁的である。
学校の掟は、非民主的な手段、非民主手的な団体において暗黙裏に決められているように思える。
目に見えないところで、ただ理由もなく頭から駄目だと決めつけているようにさえ見える。そこであえて否定された事を今一度検証してみたい。
では、どんな事が否定されているのか。
たとえば、第一に、師がある。第二に、聖職者。第三に修行。第四に修身。第五に、権威主義。第六、権力主義。第七に、礼節。第八に、体罰。第九に、人格。第十に、常識や良識。第十一に規律。第十二に男と女の違い。第十三に、思想、第十四に、自尊心。第十五に、国家、国旗、国歌など、そして、第十六に愛国心である。
先に述べたように、師という考え方は否定されている。師である前に、一人の人間であり、もっと言えば労働者であるべきだという考え方である。師としての人格や徳は求められていない。当然、師としての誇りも求められない。
2010年3月22日の産経新聞「正論」に、筑波大学名誉教授の村上和雄氏の話として世界20カ国の青少年に「先生を尊敬しているか」と質問したところ、「はい」と答えた割合は、韓国、アメリカ、EU(欧州連合)の80%以上なのに対して、日本はわずか21%で最下位。19位の国ですら、70%が「はい」と答えているのに、20位の日本は、恐るべき最下位だと言う記事が載っていた。
また、日本テレビのネプ&イモトの世界番付で紹介された数値も五十一カ国中ダントツで最下位である。しかもどちらも半分をきっている。これは異常な数字である。
学校の先生を尊敬する国ランキング(51カ国)
1位:タイ・インドネシア・ブラジル・トルコ・フィリピン・ルーマニア:100%
2位:イタリア:99.1%
3位:ベネズエラ:99%
32位:アメリカ:93.6%
36位:シンガポール:92.7%
46位:フィンランド:85%
50位:韓国:65.5%
最下位:日本:41.8%
このアンケートを先生方はどう受け止めるかですよね。異常だと思わないならばその方が怖い。
自業自得と行ってしまえばそれまでですが、先生を尊敬できないような状況にしてしまっている国というのは、栄えないですよね。
この点を改めないかぎり、学校崩壊なんて改まらないという事実ですね。
尊敬できない人の指導なんて誰も受けませんから・・・。
先ず先生が尊敬されるようになるよう努力しなければなりませんし、そのためには、社会が先生を尊敬できるような環境になる事です。
そうでなければ先生のモチベーションなんて保てません。
なんだか自虐的で、どちらかというとホラー映画みたいですよね。
これは、戦後、教育者は尊敬すべき対象ではないと教育し続けた成果だとえます。そういう意味では、戦後教育の成果です。皮肉ですがね。
今や先生というのは、学校の中では、権威でも、オーソリティーでもない。ただの人である。考えようによっては、友達以下である。こうなれば教室の秩序は保てない。
なぜならば、先生は、教室の中では指導者の役割を果たさなければならないからである。
しかし、今や教育者は指導者ではない。指導者にはなれない。これでは先生は、尊敬されない。
大体、私は、あまり先生という言葉は好きではない。
先生商売が好きではないからかもしれない。
先生、先生と呼ばれる馬鹿はないとも言われる。
先生と呼ばれるのは、学校の教育者以外、政治家や医者、弁護士といった専門家が多い。そこに何となく胡散臭さを感じてしまうからかもしれない。
先生と言うだけでそれだけで何か特別視されてしまう。
しかし、学校の教師になったからすぐに特別な人になれるとは限らない。
私は、先生と言うより師という言葉の方が好きである。
師というのは、弟子が自分で選んで教えを請う。師は、自分で選ぶのである。だから、おいそれと師を否定する事はできない。尊敬もする。なぜなら、師は自分の意志で選ぶのだからである。
弟子は、師を選ぶ時、それなりの覚悟が必要である。教える側にも覚悟がある。故に、師もまた、弟子をとる時は、弟子の覚悟を試した。
師は、単に知識や技術を教えるだけでなく。人としての道や生き方をも教えたのである。むしろ、人生を学ぶ事こそ主であり、技術や知識を学ぶ事は従だった。
故に、学ぶというのは、修行だったのである。
だから、私は、先生と呼ばずに師と呼びたい。師とは、生徒が選ぶ人です。
なぜ、教育者は尊敬すべき対象ではないのか、それは、戦前、軍国主義教育によって戦争を教育が背後から支えたという理由による。これは一面において、教育の力を暗に認めて事になる。確かに、軍国主義教育は、問題かもしれない。しかし、逆に反日的教育も危険なのである。
問題は、教育者が指導者として自立しているかいないかの問題である。戦前においても信念を持って教育をし続けて先生もいる。それを全面否定してしまったら、教育は根本から成り立たなくなるのである。この事はこれから検証する事総てに言えるのである。
同じ理由で、教室の規律も秩序も否定されている。規律や秩序は封建的で全体主義的、軍国主義的だというのである。理由を見ればなぜ否定されたのかも理解できるはずである。
つまり、敗戦である。
規律や秩序を否定してしまえば必然的に権威や権力の否定に繋がる。それは無政府主義である。
反権威、反体制、反権力的な考え方だけが通用する。そして、これらの考え方を自由という言葉で擦り込み、洗脳している。
反権威、反体制、反権力と自由とはまったく違う意味である。これらの思想は自由主義ではなく。無政府主義なのである。
だから、思想信条の自由なんて良いながら、思想を認めないのです。無政府主義の延長線上にあるのは無思想であり、その延長線上にあるのがエログロナンセンスです。
だから今の学校には、エログロナンセンスが横行している。
戦後の日本人は恐ろしいほどに権威を認めようとしない。
それは学校教育に原因があると思われる。
今の学校では、一切の権威を認めようとしない。その根拠を自由主義においている場合が多い。
教育は、本来、権威によって成り立っている。日本の教育は自己矛盾している。それが、日本の教育の現状をよく表している。
学校というのは本質的に国家機関の一部である。国家という範疇の内で機能している。その学校が反体制を標榜する事自体矛盾している。しかし、肝心の教育者がその矛盾に気がついていない。その矛盾は自己否定を意味しているのにである。だから教育者は鬱になる。そして、誰からも尊敬されなくなるのである。
間違っている事を間違っていると思いながら、又、教わる側も間違っているとうすうす感じているのに、間違ったまま教えている。それこそが問題なのだ。自嘲気味にこんな事世の中の役に立たないけれどね。今はそのまま覚えないと試験に受からないからねなんて教える側の人間の人間がいっている。その現実こそが証拠である。
権威を否定するのは、権威は民主主義や自由主義平等主義に反するからと言うのが教育関係者の理由らしい。
つまり、反権威の根拠を民主主義や社会主義、自由主義に求めているが、しかし、これは根本的な誤りである。
反権威主義は無政府主義の系統に属するのであり、社会主義国や民主主義国の現実を見れば解るように、社会主義も民主主義も、自由主義も権威を重んじる事に関しては変わりない。問題は、何に権威を見いだすかにあって社会主義者も自由主義者も権威を否定しているわけではないのである。
一番問題なのは、日本人は、自由主義も、民主主義も、社会主義も、全体主義も、共和主義も、民族主義も、国家主義も、国粋主義も、無政府主義も見境もなく、ただ自分の都合が良いところだけを取り出して他の意見を頭から否定し、断定している事である。
教育に権威は、つきものである。つきものと言うより、権威によって成り立っている。
権威がなければ生徒は信じないし、受け入れないからである。
学校が権威を真っ向から否定してしまったら、結果は、解りきった事である。最初から馬鹿にされる事がわかっていてやった事で、相手が馬鹿にしたとしても相手を責めるわけにはいかない。それは予め解っていた事なのであるから、予測通りの結果が出たに過ぎない。
失敗すると最初からわかりきった事をやって失敗して、嗚呼やっぱり駄目だったというのは、単なる自己満足である。
権威を否定する事は、最初から教える事を放棄している事なのである。
なぜ体罰はいけないのか。この事もまともに議論できる状況ではない。とにかく体罰は悪いの一点張りである。理屈でわからない事は、体で覚えるしかない。危険な事は、危険性を体で覚える。スポーツの世界では当たり前な事である。痛みは痛みを感じなければ解らないのである。
小さなやけどを怖れていたら大やけどをするとかつての哲学者は教えたのである。
又、スパルタ教育も一定の評価が与えられていた。
でも今は、駄目な事は駄目と決めつけて、それから理屈を付けるのである。
それでは物事の本質は見極められない。
行き過ぎた体罰は、むろん否定されるべきである。意味もなく、暴力をふるう事は許されない。
しかし、物事をオール・オア・ナッシングで片付けるのはそれこそ乱暴すぎる。
先生も人間である。だから、いろいろと人間らしい生臭い部分を持っている。その生臭い部分を捨てて聖人君子になれなんて言わない。それでも、人の道を外すような事は、許されない。先生は、子供達の手本でもあるからである。その点を忘れるべきではない。
子供達の手本になれる人間となるためには、それなりのモチベーションが要求される。
ところが、先生の社会的な地位が下がれば先生のモチベーションは保てなくなる。確かに、所得の問題もあるが、それ以上に社会的評価が問題なのである。それは、社会が学校の先生の役割を高く評価する以外にないのである。
こういう点を無視して先生も人の子なんて教えるのは無責任である。職業には、職業に応じた価値観が求められるのである。当然、先生には先生としての価値観が求められる。
悪い事を結びつけてだから悪いというのはこじつけである。例えば、男らしくとか、女らしくと言うのを男尊女卑や男女差別に結びつけてだから悪いというのはこじつけに過ぎない。確かに、男故に、女故に差別したり、差別されるのはおかしい。
この様な事は、言葉の意味と言うより、言葉から来るイメージの問題である。
言葉狩りもこの延長にある。悪い事を連想させると言って言葉が否定される。しかし、言葉を排除したからと言って本質が失われるわけではない。それではモグラたたきである。ある事象に使われた言葉、やがては差別用語とされるようになる。問題は言葉の背後にある差別であって言葉そのものにあるわけではない。
この様な状況では、必然的に教育者は聖職者だという点も否定的である。
教育者はまともな事を言ってはいけないというような風潮さえある。
深刻なのは、世の中の学校では常識は通用しないのである。当然、学校には世間の常識がない。常識がない事が当たり前なのである。
だから、例えば、先生は、指導してはいけないというような事もある。
先生が指導しようとすると、先生個人の思想的問題があるから、公平でないという事である。だから先生は指導してはいけないという事らしい。こんな事は世間では通用しない。先生というのは言い換えれば指導者である。指導的ない指導者なんて矛盾している。
先生が指導しなければ誰が指導するというのであろうか。
ただ、指導したくても、指導してはいけないというよりできないという事もある。
つまり、学校の先生は、指導者としての訓練を受けていないのである。先生は指導してはいけないと言うくらいであるから、指導者としての訓練も受けていない。集団を統率したり、規律を持たせるという考え方自体、封建的と否定されるのであるから、集団を統制するための技術や考え方など頭から否定されているのである。だから、非常識だというのである。集団を統率したり、まとめる事を集団の統率者がしてはならないというのであるから、集団をまとめようがない。そういう先生が体罰を行えば最初から目的が不明なのであるから、単なる暴力となる。それで体罰も悪いという事になる。
中学生のように思春期にさしかかった子供達が、迷い荒れるのは仕方がないが、それを指導する者が指導してはいけないというのであるから、指導力を求める方がおかしい。
この辺の論理矛盾は、学校当局にも、保護者にも、マスコミにもある。
要するに常識がないのである。その被害は子供達に行く。そして、先生は尊敬されないのである。これは先生の人格を否定することでもある。
けじめと言う言葉も死語である。ケジメという言葉が封建的だという事である。
権力は暴力的だから駄目であり。また、統制は独裁や軍国主義に結びつくから駄目なのである。
規律という事も当然、軍国主義的、封建主義として否定される。
恩という事は駄目。恩というのは封建思想だというのです。又、軍国主義的だとも。だから恩師というのも駄目。
熱血も駄目。なぜなら、熱血教師も自分の主張が強すぎるからです。でも教育者から自己主張をとったら何も残りません。
だから今の学校は、べからず週のオンパレードなのです。
師弟関係
恩師と先生
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