仕事を学ぶ


仕事を学ぶ


人と人との繋がりは不思議なものだと思いますね。
僕は、大部屋、現場育ちですから、人や現場が好きなんですね。
大部屋や現場というのは、得体の知れない、怪しい部分がどこかあるんですね。危険な匂いもするし、大人の匂いもする。獣が潜んでいるような・・・。
特に戦後間際でまだ焼け跡の残っている頃の下町はですね。猥雑だったです。皆、生きるという事に真剣だった。何もなかったですけれど、その中で助け合って生きてきました。
今、思うと滑稽ですけれど、蕎麦といえば、狸か、狐。僕は狐より狸が好きでしたけれど、それが普通なんですね。よもや、毎日、天丼や天ぷら蕎麦が食べれるようになるなんて夢にも思いませんでしたよ。でも、毎日天ぷら蕎麦が食べれるようになるとかえってありがたみがなくなるから不思議なものですね。
僕は、そういう生活の中で、実直で不器用だけど、自分の仕事は、プライドを持ってやり抜く。嗚呼、この人は、普段は頼りないけれど、いざとなったら絶対に逃げ出さないだろうなと思う人達に囲まれて育ってきました。
自分もいろんな修羅場をくぐりぬけてきました。そういう修羅場を括り抜ける過程で、そうやって一刻で頑固だけど、一本筋の通ったしゃんとした人達を守りきれなかったなという感慨があります。結局、高度成長や技術革新は、そういう人達の居場所を職場から奪っていった。昔は、経理というと腕に黒い腕巻きをして、それこそ、機械で印刷するよりきれいで同じ数字を書き込んでいく、堅物で几帳面というイメージがありました。そういう人達は、システム化されると真っ先に辞めさせられていった。
その陰で、簿記も仕訳もできない経理マンが増えている。
自分は、そこにこそ危機を感じるんです。
人材の育成というのは、時間のかかるものです。手間暇かけて育てて、やっと一人前に育ったと思っても辞められたら、それまでで、また、最初からやり直さなければならなくなる。
技術革新の波や税制改革や会計基準の変更、法制度の改革と言った制度の変更は、折角蓄積した技術や知識をリセットしてしまう。
それでなくともドルショックだ、オイルショックだ、円高不況だ、バブルだ、リーマンショックだと世の中の価値を激変してしまうような事件が度々起こる。
その都度、管理のあり方どころか経営の根本まで変えられてしまう。それまで正しいとされた事が間違っていて間違いだとされた事が正しいとされてしまう。
僕は、いろんな事故や災難、難題にあっても次の日には顔色一つ変えずに片付けてきた、そんな職人のような仕事師を沢山みてきました。彼等は本当の実務屋ですよ。
実務というのは徒弟制度のように先輩から後輩へと継承されてきました。
それこそ僕らは、頭を小突かれながら酒の飲み方から、挨拶の仕方、口の利き方、指示の出し方、報告の仕方、受け方を体にたたき込まれてきた。
今は、そんな事をしたらブラック企業と言われて摘発されてしまう。
そうやって鍛えられた世代は団塊の世代が最後ですかね。その後は、もう期待しようがない。筋もへったくりもありません。
仕事の基本をOJTで仕込めないとなるとマニュアル化してたたき込むという事になる。そうなるとマニュアルは膨大なものになるし、僕は基本的には反対です。あまり短期間で教え込もうとするとそれこそブラック企業にされてしまう。
やっぱり仕事の基本は、人から人へと伝えていく事だと思うのです。
昔、ジョンフォード、アパッチ砦という映画を見てそこで新兵訓練や服装の乱れを正すシーンを見てなるほどアメリカでも変わらないなと思いました。
それが今断絶しています。確かに、若手を重用するのは正しい事です。でも、その一方でベテランを切り捨てていくのはいかがなものなのでしょうね。
僕は、現場でベテランの話や工夫を聞くのは楽しみでした。確かに、彼等のアイデアというのは何の変哲もない事が多かったですけれど、でも、何度も感動させられました。
確かに、彼等は時代の変化について行けなかった。でも、その底辺にある仕事の基本は変わりない気がするのです。だから、最近の仕事には重みや深みがない。
上手くいかない理由の多くは、段取りとか、手順とか、お膳だと言った仕事のテニオハの部分だとおもうのですね。でもこの部分は、若い者達は耳を貸そうともしませんね。四苦八苦しています。
確かに、実務がわからない者にとっては、意味のない、つまらない、くだらない、細かいことの積み上げみたいな議論ですからね。
本当に、若い連中は、この種の話が嫌いですね。嫌い処か受け付けない。どうやって仕事を教えたら良いか迷いますね。
若手だけでなく中堅幹部の五十代の者も奴働きが長かったせいか、段取りをとれる者がいなくなってしまいました。段取りをとれないという事は、仕事の計算ができないことです。
以前大幹部の一人が計算のできない者に仕事は任せられないと言っていましたが、今や、計算ができない者の方が圧倒的に多いですからね。どうやって仕事を組み立てたら良いのかと方にくれてしまいます。
要するに、プロの仕事師がいなくなったという事ですね。
それが時代の変化だと諦めてしまえば、お終いな気がしますし・・・。
仕事の段取りや手順、手続き、差配といった事は、形式で覚えなければならない。その形式が悪いと我々の時代に壊してしまった。そのツケが回ってきて自分で自分の首を絞めているのである。
決めた事しかできない。決められた事しかしない。決められた事もやらない。決められた事もできない。決める事もできないと段々に組織の土台が崩壊しつつある気がします。
だからといってマニュアル化してしまったら、個々の局面の意味も、また、一人一人の判断力を失われてしまいます。だからこそ、その場その時点で躾けていく以外にないのです。
僕は、物理学を学び、時代の先端を行く情報科学に携わる人間も多く知っていますが、彼等の世界は、徒弟制度の世界ですよ。だからドイツや日本が強かったのです。
会社というのは、二つの考え方がある気がします。一つは、利益を上げるという考え方ですね。もう一つは、多くの人間を養っていくという考え方ですね。
僕、どちらかという後者の側に立つ人間なんですね。
人を生かしていくのが会社だと思うんです。だから、社員の面倒を見ていかなければならない。相手がどうあろうとですね。組合運動か盛んになった時、後者の考え方はどこかに失せてしまい。いつのまにか、ビジネスオンリーになってしまいました。でも僕は、それについて行けないんですね。部下の喜ぶ姿が何よりなんです。
仕事は、僕は生きる為の手段だと思うのです。僕らが教わってきたのは、儲けるために生きるのではなくて、生きる為に儲けるのだという事ですね。でもいつの間にか儲ける事だけが主になってしまった。
僕が子供の頃をもっと雇用条件は、厳しくて、儲ける以前に働ける事に感謝していました。だから、一年一年、年末賞与を出す時、当時、餅代と言ってましたが、社員一人一人に手渡していたものです。ところが、それは権利だからと言われて親父が悄気ていたのを覚えています。
働く事は生きる事だったし、終戦直後は、本当に人助けみたいでした。とにかく食べるところと寝るところさえあれば良いみたいに。そうやって一年一年会社を続けてきたんですね。
あの頃、地方出の社員というのは、家に仕送りをするのが当たり前でしたし、住む家もない。本当に会社を頼って出てくるんです。
もっと、皆、生きる事に真面目になって、真面目に儲ける事を考えればいいのだと思うのです。真面目に儲けてこいって言いたくなるんです。生活がかかっているんだよって。将来困らないように、仕事の基本を覚えろって。
今は生きていると言うより生かされているという感じですね。
儲からないじゃあすまない。赤字にしたら銀行が金を貸してくれない。儲からなくなったら儲ければ良い。儲かるようにすれば良いんだとたたき込まれてきました。泣くな。儲からないではすまない。社員を路頭に迷わす気かとどやされてきました。僕の言う働くというのはそういう事なんですね。
会社は生きる為の手段。先ずそこで働いている者の生活を守らなければ一人前の口はきけない。
僕は、海外から出稼ぎに来ている若い人達に当時の日本の若者達と同じ匂いを感じるんです。
僕は、どんな経営者に会っても相手を批判する気になれないんです。皆、血を吐く思いで経営している事が解っていますから。経営者には結果しかない。とにかくどんな形でも会社を継続しているという事に対しては敬意を払うべきですから。
それにそれぞれの経営者には立場かありますからね。面子を潰したら人を束ねる上で支障が生じる。
それに他人のこととやかく言っているゆとりはないですね。
結局、成功も失敗も紙一重だって、経営者なら、皆、知っているんですよ。だから成功したと有頂天になっていると転げ落ちてしまう。
常に明日は我が身と戒めていないといけないし、上手くいったとウカウカしているわけにはいかない。そんな事、経営者仲間なら言わずにも解る。だから、他人の経営にとやかくは言わないようにしている。
最近、いろいろな事で経営者がテレビの前で謝罪させられていますよね。よく経営者の会合で他人事ではないねと話しています。
同業の社長は、あれを見ていると危険物を取り扱うのを止めたいのだけれどお客様がいるかぎりは、なかなか止められない。だから、テレビで謝罪会見を見る度に覚悟しているんだよとおしゃっていました。それぐらいの覚悟をしていないと我々の商売はやっていけませんね。
なんだか自分達が先輩達から伝えられてきた事が意味のない事のようで悲しくなりますね。
でも僕らが否定しようとしている先人達は、戦争を生き抜き、この国を再建してきた人達なんですよ。みすみす、彼等の生きる知恵を切り捨てて言いものなのでしょうかね。僕はこの国の魂を守りたいだけなんです。愚かな事ですかね。
僕は、先ず仕事の基本を身につけさせ、いざとなった時に困らないようにしておく事、それに徹する意外にないと覚悟しています。要は、儲ければ良いのです。真面目に生きる事を覚えさせる事しかないのです。間違っていますかね。

自分が最近の風潮でいやなのは、過去の事は全て悪いと切り捨ててしまう事ですね。
段取りとか、物事には順序があるとか、筋を通せと叱られ、徒弟制度のようにたたき込まれてきた事々も今は、ただ、世迷い言と切り捨てられてしまう。仕事は、泣きながら覚えたものです。しかし、それも今は昔ですね。そんな事を言っても始まらない。

自分も含めて我が社の連中は出来損ないばかり。しかし、僕は、そういう出来損ないの連中と仕事をするのが楽しいのですよ。
うちのような会社には、世間で言うような優秀な連中なんて来ませんよ。皆、どこか足りなくて、癖が強くて、また、傷を負って劣等感の塊みたいな奴ばかりです。
でも、そういう人間だからこそ、キラリと光るものをどこか持っているものです。
僕は、どんな人間も必ず自分より優れたところがある。それを見いだして引き出すのが自分の仕事だと思っています。
ただ、仕事の上での筋道だけは、しっかりと仕込んでおかねばと思うのですが、他人以上に自分の未熟さが目立ってしまいお恥ずかしいかぎりです。

昔、メーカーの人間が付加価値付加価値と言うから喧嘩した事があります。付加価値、付加価値と言ったって、また、どんなに社会が進歩しても、しょうもない人間は三割はいる。そのしょうもない人間を一人前に育て、生活ができるようにするのが我々の仕事なんです。彼等は、言われたことを言われたとおりやりたくても力が不足していてできないんですよ。それを馬鹿にしてはいけない。彼等は、それが悲しいのです。だから、彼等が解るようにする。できるようようにするよう努めるしかない。それがマネージメントだと思うのです。

しょうもない人間は、しょうもない事を言うし、しょうもない事をします。でも、そのしょうもない事の中に、ハッとさせられるような真実が隠されていたりもする。簡単に馬鹿にするわけにもいかないのです。

所詮、僕は、騙されても、裏切られても駄目人間が好きなんですね。
彼等には人としての真実がある。飾りたくても飾りようがないですからね。失敗したところでおかしみがある。阿呆かって。一緒に泣いたり笑ったりしながら、苦楽を共にできるんですね。
馬鹿だ間抜けだと言うけれど、終日、ボンベを転がしたり、車を運転したり、そんな事東大を出た人間にできます。彼等にしかできない仕事がいくらでもあるんです。だから、彼等に生きる道を与えるのも僕らの仕事です。
私は、仕事の基本を先ず覚えて地道な努力をするしかないと思うのです。その地道な努力というのを当今の人間は、馬鹿にしますね。
皆、華やかな成功ばかりに目を向けてしまう。でも、その成功の陰にどれだけ多くの人の涙や汗が隠されているか。
僕は、昭和二十八年生まれ。その上の団塊の世代は、戦後生まれの典型なんですね。だから、我々は、過去を全否定してしまった。
でも、僕は、日本人なんですね。遺伝子のどこかに日本人の魂が潜んでいる。それでやれ筋だ、ケジメだと耳元でがなり立てるんです。そして、恩を忘れるなと。
昨今は礼儀作法なんて言っても馬鹿にされるだけです。若い連中に迎合ばかりする。頑固一徹なんて流行はしません。
確かに、悪いところもありました。でも、今日の日本の繁栄を築き上げてきたのは、今、我々が切り捨てようとしている方々ですよ。それを忘れたら、日本の未来なんてありはしない。
僕は、人知れず、ひたひたと地道な努力を積み上げ、いつの間にか仕事を仕上げてしまった先輩達を憧憬しながら育ってきました。ああいう職人のような仕事師が本当にいなくなりました。あれこそ日本男児ですよね。男心に男が惚れて。そんな事を言うと今では女性蔑視だと言われてしまう。本当はそうではないんですけどね。

彼等は、人を師として敬う事を教わっていない。礼節なんてとんでもないという世代ですからね。よくて対等ですよ。
しかし、いざとなるとそういうわけにはいきません。
人生は長いのです。自分一人ではどうにもならない時が一度や二度、来ることを覚悟しておかなければならない。
そうなってから師と呼べるような人を探しても遅いのです。
僕は、これまでいろいろな人に助けられてここまで来ました。仕事上の師と呼べる方には恵まれてきたと思います。
でも今の時代は、そういう方になかなか巡り会えません。人間としての修行ができていないんですね。
そういう方に巡り会えたら、その縁を大切にし、敬意、礼節を以て接することが大事なのです。
自分も、自分が、指導的な立場の年になってみますと、未熟さばかりが目立ってしまいます。修行がたらんのです。
考えてみると三十年近く会社をやって来ましたが、情けない事に上手くやったと思える時はありませんね。振り返ると赤面の至りです。
髪の毛が一本一本白くなっていくのが解るような時もありましたし、誰にも相談できず悶々とした時もあります。弱音も吐けず。ただひたすら自分を信じて乗り切ってきたというのが本音です。でも孤独を感じた事はありませんね。いつだって自分を信頼してついてくる社員がいましたからね。阿呆ばかりですけれど。

自分が何時か人を導かなければならない立場に立った時、困らないように、また、しっかりと自分の責務を果たせるようになるために、日頃が心掛けておく必要がある。それが仕事を学ぶことであり、人としての修行である。

壁を越えようとするから越えられないのだと思います。百点を満点とする勉強は、百点を超えることはできないのです。越えようとするのではなく、何かを学び取ろうとすれば、そこからその人その人の持つ真の実力が出るのです。現実の物事に最初から百点満点なんてないのです。第一答えが定まっていることなど殆どない。大切なのは、絶え間なく学ぼうとする姿勢です。
何にせよ、その真摯な態度を失った時、自分こそが越えることのできない壁となって自分の前に立ちはだかるのだと私は思います。




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