教育の理想を求めて


後継者に


後継者が叫びたくなる気持ちは痛いほどよく解りますよ。
私も父の仕事を引き継ぎ、同じ様な立場に立たされてきたのですから・・・。
私だっていつも叫びたくなる。
大体、経営を引き継ぐというのは前任者が失敗したか、責任をとらされた場合が多いですし、良い時に引き継ごうなんて思ったら、引き継げなくなる。ダラダラと引き延ばして結局、責任をとらされるか、放逐される。
事業を始めて投資をすれば、その時から借金との格闘になる。

人なんて勝手なものですよ。自分の勝手でしか見てくれない。
経営なんてその際たるものです。
人の尻拭いばかり、後始末ばかりと言われればそれまでです。結局、いざとなったら、部下の不始末で責任をとらされる。いくら自分が駄目だと言っていたとしてもですよ。言い訳なんて出来ない。それが経営なんですよ。
信頼して委せれば勝手な事されるし、委せなければ何もやらない。
一生懸命育ててもある程度育ったところで辞めていって最悪な時は、大切な客に手をつけられる。恩だ義理だと言ってもはじまらない。彼等には彼等の言い分があるわけですから、結局、戦うしかない。
裏切られ、背かれても、部下を信じ続けなければならない。
それでいて、社長などと言うと僻みややっかみばかり。社長は大変なんだなんていったところで泣き言に過ぎないし、自分が惨めになるだけ、下手をすると信用問題にもなりかねない。
社長は、他人の尻拭いばかりさせられているとしても、そう思ったり、口に出したら、もう自分を保てなくなる。お終いなんです。
被害者だなんて思い始めたら、自分を支えきれない。
なにせ、片付けなければならないことは山程あり、どれ一つとっても時間がかかる。しかも思い通りになることなんて何もない。
自分がしたいことの一割も出来ればましな方です。
それに、もうこれで良いと思ったら、お終いです。もういいやと思ったら、引退する時だよと知り合いの経営者が苦笑しながら言っていました。
なんだかんだ言いながら何も出来ずにいつの間にか三十年近くも立ってしまったというのが本音ですね。
時には、親の仇みたいな人間とも手を組まなければならないことすらある。

許し、受け容れる事も大切だと言うことを解って欲しいのです。
許し合えないならば、答は自ずと一つしかない。
許し、受け容れ、信じなければ始まらないのです。
厭だ。許せないとなったら、顔をも見たくなくなりますよ。生理的に受け付けなくなる。だから、なるべくマイナスなことは考えないようにしてきました。
ただ続けていれば何とかなると信じるしかないんです。長い時間の中で片付けていかなければならない事ばかりです。一朝一夕では片付かないんです。

ただ、私は、最後は心の問題だと思います。心がおれたらそれまでです。

僕は、経営者の多くが酒や女、博打に溺れるの見てきました。ただ自分には解らない。酒だの、女だの、博打に逃げたら救いようがなくなってしまいます。確かに、誘惑は多いし、遊ばないと駄目だよと言う誘う輩も多い。先日もゴルフぐらいしなければと言われました。
父もゴルフを生き甲斐にしていましたし、でも、僕はそう言う器用な生き方は出来ない。何かを切り捨てないと、いざという時に自分の判断が狂うと思うんです。
それでなくとも間違いばかりしていますけれど・・・。
余り、僕は贅沢な生活を望まない。良い事か、悪い事かは解りません。
経営者は欲がなければと言う人もいますから。
かといって、私は、目刺しを食べていればいいと言う土光さんのようにもなれない。

でも、経営というのは、悪い事ばかりではないです。と言うより、こんなにやりがいのある仕事は他にありません。
経営者は孤独だと言われますが、僕は孤独なんて感じたことありませんね。経営なんてそんな孤独を感じて感傷に浸れるほど、生っちょろいものではありません。ひたすら、前進あるのみです。
だから、解って欲しいんですね。
僕は、自分が悩んだら、最初から覚悟の上だろと言い聞かせてきました。それ以外にない。誰が、彼がと言ったらやっていけないんですよ。

僕、反体制世代が許せないのは、彼等は、人や世間を責めるばかりだった。建設的な事を何もしていないんですよ。建設的な事って地道な努力を積み重ねていくしかない。それこそ、他人の尻拭いや後始末をしていくことです。一つでも克服できた時、それなりの喜びが得られる。ただそれだけですよ。でも、それが人生なんですよね。
他人から見ると父の尻拭いや後始末をさせられているように感じるかもしれませんが、僕にとっては生き甲斐なんですね。と言うよりやるしかないのなら、前向きに考えるしかない。後ろ向きに考えたら、精神を保てなくなるんです。
だから、甘えるところは甘えないと・・・。

何が正しくて、何が間違っているか判断に迷うことがよくあります。それでも自分を信じて決断をしなければならない。
自分が絶対に正しいかというとそれも断言できません。ただ迷うことが許されない立場にいるのです。正しいと思ったら決断し、断行するそれが僕の立場です。

家族とは何かなと最近考えさせられます。
それは、何のために、誰のために働いているのかという事ですね。
我々の世代のいけないことは、それを曖昧にし、綺麗事として捉えているという事でね。父達の世代の人達は、家族のために働くのだと言う事がハッキリしていた。
だから、父達には、家族を犠牲にしているという意識はなかったと思います。
それに対し我々の世代は、家族を大切にしていると言いながら、家族を切り捨ててきた気がします。
本当に僕にとっては家族の絆が大切なんです。

世の為人の為でもなく、家族のためでもなく、国のためでもなければ何のために働くのか。
私には解らない。世の為人の為、家族のため、国のためでなければ、残されるのは金のためでしかないからです。
世の中には、どうにもならない事や救いようのない過ちを背負って生きている者が沢山いるのです。
そう言う人間が吹き溜まりのようにしてうちのような会社に集まってくる。馬鹿な奴だと思いながら、毎年、一人二人を処罰しなければならない。それも僕の仕事です。それは絶叫したくなりますよ。

指導者の最初の仕事は、後始末、尻拭いである。何もかもが順調な時に引き受けた指導者よりも困難な問題が残されている時に引き受けて指導者の方が真の指導者になる。それは、問題を解決する過程で組織の指導者として受け容れられるからである。
良い時に引き受けると言う事は、結局過去を引きずることにもなるし、又、それまでの体制を引き継ぐことにもなる。そうなれば隠然たる権力を温存することにも繋がる。困難な時には、過去を清算する大義名分も成り立つのである。

創業にせよ、再建にせよ、困難だからこそ闘志が湧く。誰がやっても成功するとか、同じだというのではつまらないではないか。
逆境だからこそ自分が必要とされると思っていた方が気が楽なものである。くれぐれも自分を自分で悲劇の主人公にはしないものだ。それは、端から見て喜劇でしかないからである。




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