自分の理想を求めて


自分の限界を知る事



教育にも限界がある。教育は万能ではない。
教育者は神ではない。
人間は、全知全能の神ではないのである。
不確かで、不完全な知識や技術を教えようとしているのである。
元々、人を教えようとすること自体に限界があるのである。
生徒にも、肉体的、能力的限界があるし、第一に、教わる側に意欲、やる気がなければ、教育しようがないのである。
教わる気がなければ、何をやっても無駄である。
それは、教育が、生徒一人一人の個性や人格に根ざしているからである。
一人の生徒にうまくいったからと言って他の生徒にうまくいくとは限らないのである。
生徒を一律に扱うことは出来ない。
一人一人違うのである。
生徒が百人いれば百通りの教え方が必要となる。
そして、教育の限界は、教育を受ける側の限界でもあるのである。
それを理解していないと、教える者は傲慢になる。
人を指導感化しようとする者は、自らの限界を思い知らなければならない。
所詮、教育者も人間なのである。

社会や組織というのは、自分の限界を知る事によって成り立っている。
自分が出来る事と、出来ない事。
自分が解っている事と解っていない事。
さらに、自分が他者より優れている事と劣っている事を冷静に知り、他者を受け容れられなければ、社会や組織の一員にはなれない。
ただ、自分一人で、自分が解っている事、解っていない事、自分に出来ない事、できる事、自分が優れているところ、劣っているところを見極めることは難しい。
だから、先生がいて、親がいて、友がいる。
他人から自分の限界を指摘されたら、例えば、自分が出来ない事、自分が解っていない事、自分が他人より劣っている事を指摘されたら一々感情的になっていたら社会や組織には居られなくなる。
解っていない事を指摘されたり、出来ないことを指摘されたり、劣っている事を指摘されたからといって馬鹿にされたと腹をたてていたら、自分の限界を知る事は出来ない。
解っていない事が悪いのではない。出来ないことが悪いのではない。劣っている事が悪いのではない。それを認めて自分が努力し、あるいは、仲間を認めないことが問題なのである。
自分が解っていないのに、解ったとし、自分が出来ないのに、出来るとし、自分が劣っているのに、優れているとしたら、社会や組織は、機能しなくなる。
なぜならば、解ったとされれば、解っていることを前提とし、できると言われれば、出来ることを前提とし、優れていると言われれば、優れている事を前提として社会や組織は動くからである。
特に、怖いのは、解ったつもり、出来るつもり、優れているつもりになってしまうことである。
かといって解っているのに、解らないとし、出来るのに、出来ないとし、優れているのに、劣っていると卑下しても組織は働かなくなる。
社会に出て先ず何を学ばなければならないのか、それは、なにも自分一人では、自分の思い通りにならないことである。
だから、仲間が必要なのであり、組織が必要なのである。
社会や組織の中で自分の思いを遂げようと思ったら、自分の限界を知り、他人を認め、受け容れるしかない。
だからこそ、社会で自由になりたいのならば、自分の限界を知る事である。
自分の限界を知った上で、自分が本当に何をやりたいのかを見極めたら、自由への道は拓かれるのである。
なぜならば、自分が本当にやりたいことの延長線上に自分の夢があり。
自分が夢に向かって邁進することこそ自由な生き方だからである。



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