教育の理想を求めて


今の学校では・・・。



 今の学校の先生は、明確な価値観がない。というより、今の学校の在り方では持てない、持ってはいけない。先生と言ってもただの労働者であることを前提としているとしか思えない。

つまり、教育は、ビジネス、労働以外なにものでもない。あってはならないという前提に立っている気がするんです。
 明確な確信が持てないと言うのは、良識とか、常識が存在しない状態、持てない状態なんですね。いうなれば、今の学校は、良識とか、常識の通用しない世界なんです。
 思想とか、哲学というと、何か特別な事、、難しい事、非日常的な事、政治的なことのように思えて、危険な匂いがする様に思われがちです。実際、思想などと言うと極端な意見や過激な考えが多くてついていけない。
 今、言われている思想や哲学は、自分達が日常生活の中で感じている価値観とかけ離れていて相容れない部分があるんです。
 でも、それでは先生は困る。
 なぜならば、生徒達の悩み事や相談事は、ごくごく日常的で当人以外には、どうでも良いような些細な事だからです。でも当人にとっては深刻な悩みなんですね。
 たとえば、どうしたら友達が出来るのかとか、彼女との付き合いかたがわからないとか。
 それこそ口のきき方が解らないとか。
 挨拶の仕方が解らない、卒業後の進路が決められないとか。
 学校の成績が悪いからどうしたらいいかとか。
 親が自分のことを理解してくれないとか。
 人を好きになるとはどんなこと。
 友達に酷いことを言ってしまったけどどうしたらいいだろうとか。
 そんな生徒達の悩みに先生は、確信を持って話せる状態ではない。なぜって先生は自分の考えを持ってはいけないと言う風潮があるからです。だから、生徒は先生を馬鹿にして、尊敬しなくなる。

 自分の意見が持てなければ、父兄や生徒に対して自分の考えや立場を明確に説明できない。又、満足な反論も出来ない。そうなると何を教えたらいいのかも解らなくなる。

 大体、先生同士、悩みを相談しようにも相談相手が見つからなくなる。

 先生に鬱病が増えるのも道理ですよ。

 しかし、本来の思想や哲学というのは、ごく有り触れた考え、日常的な価値観、常識や良識の根っ子にある体系なんですよ。だから、ごくごく当たり前な事が中心になければならない。特別なことでも、特殊なことでもない。万人が納得するようなものでなければならない。
 常識や良識は、嘘をついてはいけないとか。物を盗んではいけないとか。人を傷つけてはいけないとか。当たり前な価値観でなければならない。
 思想や哲学というのは、そう言った些細な事に対して明確な指針を与えるものでなければ意味がない。
 極端な考えや難解なことでは、普遍的な価値観にはなりえないのである。

 性教育を否定しないが、それは、愛情教育を前提としてである。愛情、人を慈しむ心を教えないで知識ばかりを先行させるのは危険なことである。
 異常なことがあることを否定はしない。しかし、その前に正常な事に則っているのが前提だ。異常な事を正常なこととすり替え、正常なことを異常とするのは、何等かの陰謀である。
 当たり前なことを当たり前と証明するのが本来の思想や哲学の意義なのである。

 これは宗教も同じですね。
 宗教というと超能力や超自然現象、オカルト、奇蹟、、魔法や魔術、呪術といったオドロオドロしい迷信だの、洗脳だの、狂信者だのを思い浮かべがちです。
 また、最近では、イスラム教原理主義者とかテロを思い浮かべますが、本来は、冠婚葬祭とか、日常の仕来りや行動規範の基準を設定するものなんですね。要するに、ものの軽重の基準ですよね。

 一人一人の悩みは、他人から見るとどうでも良い。しかし、どうでも良いようなことだからこそ、悩み出すときりがない。だから、皆、宗教や思想に解決を見出してきたんです。だから、学校の原点は、寺子屋や教会なんですね。その根本が失われた。それで、多くの先生は、迷い苦しむんです。しかも解答が得られない。
 思想や哲学なんて日常的な考えを洗練したものにすぎないんですよ。
 自由にしても然り。難しい事を言っているのではない。その点を勘違いしないでくださいね。

自然に考えて受け容れられるものでなければならない。

 今の先生も生徒も試験制度に囚われすぎていて教育制度の本当の在り方や目的を見失っていると思います。
 教育本来の目的は、試験の成績をよくすることでも、良い学校に合格させることでもないはずです。一人一人の希望や能力、適正にあった知識や技術を習得し、また、社会人として生活できるような素養を身につけさせることである。学校の成績や試験はその手段に過ぎない。
 ところが今の教育は、試験の成績、その結果である偏差値に支配されている。
 すべての能力や適正は、成績や偏差値によってのみ測定され、当人の希望や適正なんてどこ吹く風である。だから、おちこぼれが生じるのです。本来、教育にはおちこぼれはないはずであり、おちこぼれを生み出すのは、教育の失敗なのです。なぜならば、教育の目的は、生徒一人一人の希望や適正によって違ってくるからです。
 そして、それは教育思想の問題なんです。

 教育には、三つの要素と二つの手段があると私は、思います。
 三つの要素とは、教えると言う要素と学ぶという要素、そして、教えるという要素です。
 二つの手段とは、座学と経験。経験とは、言い替えると修行です。戦後の学校教育では、この修行という手段が抜け落ちています。
 教わるというのは学習であり、学ぶとは、自主研究、教えるというのは指導である。

 自由主義教育では、善悪の基準は、自己を基礎として形成させる。つまり、自己善を前提としています。故に、経験が重視されます。それが経験主義教育です。
ただ、経験主義教育と言っても枠組みは、先生が作って置く必要があると思います。
 その根本は、公と私、集団生活、法と自己責任、権利と義務、権限と責任、自由、平等、愛について、民主主義的価値観等です。つまり、自分の在り方、人と人との在り方、社会人として必要な事、人間関係の築き方の基本です。必然的に民主主義的な礼節に至ります。

 物事には順序、教育にも順序があると思うんです。
 性を教える前に、愛を教えるべきなのです。人を慈しむ事、命の尊さを教えるべきなのです。

 民主主義、自由主義と声高に叫んでいる人達は、いきなり、反体制とか、反権力と言ったステレオタイプの思想を持ち出します。しかも、それは思想ではなくて一般常識のように、又、自然の法則のように自明、所与の真理のように言います。
 しかし、自由主義というのは、個々の価値観や基準は、一人一人の判断に委ねるものというのが原則です。つまり、最初から結論ありきではないんですね。
 個人の意見を公の意見に置き換えなければいけない場合は、個人の意見を公のものとするための過程、手続が重要なんです。 それを思想信条の自由というのです。
 ですから、民主主義というのは、手続や仕組み、制度による思想とも言われるのです。

 もう一つ重要なことは、民主主義の原則を日本人は、話せばわかるだと錯覚していますが、民主主義の大原則は、話しても解らないです。だから、会議であり、多数決であり、選挙なのです。

 だから、相違点や違いばかりを協調するのではなくて、先ず、共通点を見出す努力をすべきなんだ。違いばかりが目立ったら、まとまるものもまとまらなくなるからね。
 何事も原点は、共感、共鳴さ。






                content         


ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、 一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2012.3.1Keiichirou Koyano

教   育