教育の理想を求めて
自由の大切さについて
前略 皆さんの感想文を読ませていただき、大変に感動しています。
良い勉強が出来たと思います。
本当に有り難う。
本来なら一人一人に返事を書かなければならないのですが、なかなか時間がとれないので、まとめて書かせてもらいます。ごめんなさいね。
皆は、自由になるためには、努力が大切だと言う事は解ってくれたと思います。
でも、努力と言っても自分に出来ない努力ではないという事も解ってください。
だって自分に出来ない努力では意味ないでしょう。
努力と言っても自分にできる努力でなければね。
なぜならば、自由になるためには努力以上に自分を信じると言う事が大切だから・・・。世界一流のサッカー選手でなければ、自由になれないなんて事になったら、誰も自由になろうなんて思わないでしょ。
一流のサッカー選手のように世界記録を作らなければ達成感が得られない人もいれば、ゴール一本決められたら大感激と言う人もいると思うんだ。
でも、どちらも努力の賜物だし、どちらも貴重な体験だと思う。
自由は、その人自身がどう感じるかの問題なんだ。
だから、努力も大切だけど、それ以上に大切なのは、自分を信じること。
自由の本質というのは、自分を信じること。
勉強すれば、するほど自信なくしてしまうなら、勉強をする意味がないでしょ。
だけど、勉強というのは、自分が自由になるための手段の一つだと僕は思うんだ。
自分がどんな生き方をするのか、どんな生き方をしたら幸せになれるか、どういう生き方をするのか、どうしたら幸せになれるかが解ったら、勉強の仕方も違ってくるでしょ。一流大学へ行けば、幸せになれると思えば、それこそ死に物狂いで受験勉強をすればいい。
でも、これからは、食べ物が大切だからとおもえば、農業の勉強をすればいいし、俺は商売人になるんだと思えば、商売の勉強をすればいい。先生になりたければ、先生になるための勉強をすればいいし、床屋になりたければ、床屋の勉強をして、良い職人になりたければ、職人に弟子入りすればいい。
問題は、自分がどういう生き方をしたいかだよね。
だって、皆には、未来があるんだもの。
未来について、夢について、兎に角、勉強してみたら。
なんだか、訳も解らず、とりあえず勉強して、他人が決めた路線にのって進学して気がついたら、サラリーマンになっていたでは、自由の意味なんて、一生、解らないよね。自分がないもの。それで、フリーターになったり、リストラされたら、頭変になるよね。自分がないもの。だから、鬱病になったり、自殺したり、犯罪者になったりするの。だって自分がなければ、自制心なんて持てないでしょ。
自由の本質は、自分を信じること。
だから、先ず、自分を知る事が大切なんだよね。
自分を知るなんて言うと、自分のことは、自分が一番解っているよって大体思っているんだよね。
でも、僕には、自分のことは、自分が一番解ってないんじゃないかなと思えるんだな。
考えてごらんよ。この世の中で直接見ることの出来ない顔というのは、自分の顔だよね。
隣にいる人の顔は、直接見えるけれど、自分の顔は、鏡を通してしか見えない。
よく相手の顔を見てとか、相手の目を見て話しなさいというけれど、自分の顔を見てとか、自分の目を見てと言っても無理だよね。
時々、ぼくは、不安になるんだ。一体、俺は、どんな顔して、どんな目をして話をしているのかなって。
僕は、家で小桜インコを飼っているんだ。チーちゃんと言うんだけどね。
鳥かごに鏡を入れてやるとチーちゃんは、鏡の自分と大喧嘩をする。そうかと思うと、鏡に写った小桜インコにうっとりして、自分に恋したりもする。
チーちゃんは、鏡に写った姿を自分だと思っていないんだよね。
自分を意識できるのは、人間ぐらいだと言われているね。
つまり、自分のことを自分は解ったつもりで居るんだよね。
だけど、実際のところ何にも解っていない。
だから、友達に言われたことがものすごく気になったり、腹が立ったりもする。傷つくよね。でも、しっかりと自分のことが解っていたら、揺るがないよね。
それが揺るがない自信なんだ。
それが自由になるために先ず必要な事。
何のために勉強するのかと質問すると自分の為ですよと返ってくる。
これってある種の定番ですよね。
でも、自分の為にと言うのが曲者なんだ。
なぜならば、自分というものがわかっていないのに、自分の為にと言われてもはじまらない。
だから、大概、返された人間は、苛々する。段々、腹も立っている。自分の為にと言われても肝腎の自分というものがわかっていないから・・・。それでは反撥だけが残ってしまう。
自分が何をしたいか、どんな生き方をしたいかが、解らないから聞いているのに・・・。
これでは逆効果になる。
自分の為に勉強するというのならば、先ず、自分を知る事が先決だという事を教えなければね。
じゃあどうやって自分を知るのかというと、自分を外の世界に写す。鏡に写すことだな。例えば、自分の事を理解してくれていると思える友達、それから先輩、そして、先生の話をよく聞くんだね。
そうやって自分の事を謙虚に受け容れていくんだ。
優越感も、劣等感も、自分の実像を曇らせてしまう。
だから、謙虚に人の言う事をよく聞き、常に、反省をする。
悪い事をしたと思ったら、素直に謝る。
そうすると段々、自分の実像が解ってくるよ。
歪んだ人間と付き合ったり、歪んだ社会にいると写し出された自分の姿も歪んで見える。
だから、真っ直ぐな人間と付き合い、真っ直ぐな社会を作ろうとするんだ。
又、自分も他人を映す鏡になろうとしなければ、だから、自分も正直で真っ直ぐな人間に成るために努力する。
それが自由人。
俺のこと誰も解ってくれないとか、俺は、なんて駄目なんだとか、どうせ俺なんてとか思っていたら、自分の事なんて絶対に理解できない。自分が自分のこと理解できないのだから、誰も自分のこと理解できないよね。
僕も昔、誰も自分のこと理解してくれないと思い込んだことあるよ。
でも、後で考えてみると、自分のことを自分以上に理解していてくれた友達や先生が沢山いたんだよね。
自分で自分の耳を塞いでいたんだ。
やりたいことをやるというのは、欲に従う事ではない。
欲は、自制心をなくせるよね。
欲は生きていくため、と言うより、向上心を持つためには、必要な事。
でもね、自分がしっかりしていないと欲は、自分を壊してしまう。
やりたいことと言うのは、自分の意志がなければ・・・。
食べたい物を食べて、ゲームしたいからゲームしてと言うのは、自由というのとちょっと違うよね。
根本に自分がなければ自由ではない。
目の前にある物を食べたり、ただやりたいからやるというのでは自由にやっているというのとは、程遠いよね。
それをやることで自分が活き活きと生きて居るんだと実感を得られれば、それは、それでいいと思う。他人がとやかく言う筋ではない。でも自分が解っていればねと言う前提がつく。
だから、僕は、ゲームをやることを反対したりはしない。
実際、僕もゲームにはまった時期もあるしね。
ただ、経験的に言うと僕の場合は、現実の自分を直視するのが怖くて逃げていたんだよね。
ここだけの話だけれど、僕はどちらかというとおちこぼれ組だったから・・・。
自分から逃げるために、厭な事を忘れるためにゲームをするのだったら、僕は、少しゲームを控えた方が良いと思う。
僕は高校時代、独りで旅をするのが好きだった。だけどそれは、自分から逃げ出すために旅するのではなく。自分を取り戻すために旅をしたんだ。嫌な自分を忘れるために旅したんじゃ旅する意味はないよね。
自由と言うのは、自分の意志で生きるという実感に基づいていなければ・・・。
本当の自分というものがなければね。
それは、自分は、生かされているという実感にも繋がるんだな。
生かされているというのは、自分は必要とされていると言うことにも繋がる。
だから、感謝することにもなる。
僕らは、いっぱい間違った事を教えられてきた気がする。
その一つに、他人に迷惑をかけなければ何をしても良いという事。
これを自由だというのね。とんでもない間違いだよ。
親に迷惑をかけない子はいない。子に迷惑をかけない親もいない。
先生に迷惑をかけない生徒はいない。生徒に迷惑をかけない先生もいない。
友に迷惑をかけない友はいない。
俺は、友達に、おまえの存在そのものが迷惑だといってやるんだ。その上でだから、友達なんじゃないか。迷惑をかけるのは友である証拠さとつづける。迷惑をかけて何が悪い。友達じゃないか。迷惑をかけられない友なんて友じゃない。違うかい。だから、友に言うんだ迷惑をかけてはいけないなんて口が裂けても言わない。ただ、迷惑をかけていることを自覚しろって。
迷惑をかけていることを自覚しないから、誰にも俺は迷惑をかけていない。だから何をしても良いんだと錯覚する。それで世の中にも親にも仲間にも盛大な迷惑をかける。先生だって馬鹿にする。
迷惑をかけていることを自覚するから、自戒もするし、感謝もするし、素直に謝る気にもなる。
誰にも迷惑をかけていないと言う思いは、やがて、誰の世話にもなっていないになり。
誰の世話にもならないになり。
誰の世話もみないになってしまう。
結局情けない社会になってしまう。
僕も皆に迷惑をかけているのかもしれないな。だから、僕は、皆に心から感謝している。本当だよ。
思いというのもむずかしく考えることはない。
先生は、皆のことをものすごく思っている。
そして、一生懸命努力している。
その先生の思いを皆が受け止めたら、先生と皆は、自由に互いの意志を交換できるようになる。それが思いであり、自由なんだよ。
自由ってだから素晴らしい。
自由って自分の人生なんだ、自分の意志でしっかり歩いていこうね。自分のものにしようねと言う思想なんだよ。 草々
平成二十四年二月二十五日
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