悪とは


悪とは


 善と悪とを教えるのは、教育で一番重要な事柄である。
 善と悪とを弁(わきま)えさせる事は、社会において人として生きていく為に絶対不可欠な要素である。子供に善悪の分別をつける事は、教育の最大の目的、使命である。やって善い事と悪い事が解らなければ、一人前の大人とは言えない。ところが、やって善い事と悪い事の分別のつかない大人が増えている。それでは、社会生活に支障をきたす。一人前の社会人になる前にやって善い事と悪い事を躾るのは、社会が担う最低限の責務である。
 ところが、善と悪とを教える事のできる公的な教育機関は存在しない。学校には確かに、道徳の時間があるが、基本的には、善と悪とを躾(しつけ)る場にはなっていない。なぜならば善と悪とは、極めて思想的な問題だからであり、今の学校は、客観的な事実を教える事を目的としているからである。倫理と言っても事例をあげて考えさせる事以上のことはできないのが建前である。又、教師も道徳を前提とし採用されているわけではない。教師もあくまでも労働者に過ぎないのである。

 かつては、宗教が善悪を教える機関であった。今日の社会は、道徳的には無政府主義である。つまり、公的機関が道徳を躾るべきではないとしている。では、誰が、道徳を躾るのか、それは、明らかにしていない。
 学校自体が革命家に牛耳られているのであるから、なにをか況わんやである。
 中には、悪徳を奨励する教育者すらいるくらいである。

 これでは、公序良俗が失われるのは必然である。なにせ、革命家は、革命的状況を欲しているのであるから。

 俗に、十善に如かずという。つまり、第一に、人を殺してはならない。第二に、人を傷つけてはならない。第三に、人を、不当に、拘束、拘禁、束縛してはならない。第四に、他人の物を盗んではならない。(所有権)第五に、他人の物を傷つけてはならない。第六に、邪淫してはならない。第七に、人を欺いたり、だましてはならない。第八に、嘘をついてはならない。第九に、自堕落で、怠惰な生活はしてはならない。第十に、人の名誉を傷つけてはならない。
 十善に如かずというのは、善の根本というのは、十の戒律程度であり、難しいことではないという事である。しかし、それを実践することは、大変に難しい。

 善の対極に悪があるとも言える。しかし、人を殺してはならないとか、物を盗んではならないとか、嘘をついてはならないというのは、結果としての行為を諫める戒律である。悪の本質は結果にあるわけではない。悪の本性は、心にある。
 善、悪の本質は内心の動機にある。つまり、善意であるか、悪意であるかにある。
 故に、善は自己善である。悪は、己(おのれ)の良心、善心に背く行為なのである。

 悪の本源は動機にある。つまり原因が重要なのであり、行為は結果に過ぎない。しかし、法は結果において裁く。むろん、動機も重要である。しかし、法は、結果として現れた行為を基としていることに変わりはない。人の物を盗んだ、人を殺したという表に現れた行為、結果によって人は裁かれるのである。しかし、悪の本質は心根にある。

 東日本大震災にあって多くの人が自分の身を差し置いて人々のために、国や、故郷のために、献身的で懸命な努力をしている。
 その一方で、この災害を利用して強盗や窃盗、詐欺などをして荒稼ぎをしている。この様なことは悪である。
 この様な悪の根本にあるのは私利私欲である。

 悪には、仲間の信頼に対する裏切り、背信がある。信頼を裏切るのは悪である。しかも、根底に悪意があれば尚更である。

 また、恩を仇で返すような仕打ちも悪である。一番の恩は。親にある。親を欺き、酷い仕打ちをするのは、極悪である。人は、一人では生きられない。多くの人の助けや情けがあって生きていける。恩ある人を裏切ることは、悪である。

 善とは、忠義である。
 悪とは、背信、裏切り、我欲である。

 善とは自己善である。悪は、その対極にある。

 何が善で、何が悪かを教えるのも教育における最も重要な使命の一つである。
 今の世の中で何が一番問題なのか。それは、善と悪との境目が判然としないことである。故に、勧善懲悪のドラマが成り立たない。
 その為に、善と悪とを教育しようがないのである。
 だから、悪が蔓延り、栄える。悪徳を讃える者までが現れる。

 善と悪とが不明瞭だから、人は生き方に迷う。宗教や道徳律がしっかりしていた時代は、少なくとも人は、何が正しくて何が間違っているかは明らかだった。

 かつて人倫は、修身、斎家、治国、平天下、格物、致知、誠意、正心と一筋であった。そして、この一筋に忠であれば善は成り立ったのである。

 しかし、現代社会は、善も悪もない。それが現実だの科学的だのという事になっている。一番大切なのは、客観的事実だという。しかし客観的事実には、真偽はあっても、善も悪もない。善悪は、主観的判断基準だからである。

 善も悪も内面の規律である。故に、善も悪も原因にあって結果にはない。結果は、善意、悪意から生じ行為によるのである。

 悪とは、我執から生じる我欲が本となる。つまり利己主義より生じる。悪の根源には、私利私欲がある。つまり、性根の問題なのである。悪党は、性根が腐っているのである。

 金銭的価値観が倫理観に優先し、経済的原因による不正が後を絶たないのは、共同体意識が喪失したことが主因である。
 企業が機関化したために、生産主体である共同体に対する忠誠心が損なわれた。生産主体は、生きる為の目的ではなく、単なる所得を獲得するために利用する機関に過ぎなくなったのである。
 共同体であれば、人の人生と共同体の運命は一体である。生きる事と、仕事が同一なのである。例え、自分の身に何かあっても妻子の面倒は保証されている。だから、忠義を尽くす事が可能なのである。だからこそ、倫理観が問われる。
 それが金儲けの機関となれば、金を儲けることのみが目的化する。金儲けのためならば、全ての行為が正当化される。しかも、定年退職によって期間が限定されているとなれば尚更である。決められた期間の内に荒稼ぎをしようとする。全ては欲得の問題に還元されてしまう。金のためならば、親であろうと、恩人であろうと売ってしまう。それは悪である。
 結局、損得、欲得は、私的に感情であり、公に対する観念が欠如している。公に対する責任感が生まれないのである。だから、私利私欲しか残らないのである。

 つまり、それは公徳心の問題である。公と私が未分離だからである。
 国民国家と封建的な社会では、公に対する考え方が違う。封建的社会では、近代的な意味での国家という概念そのものが欠如しているのである。
 忠義の対象は、個人か何等かの家族、階級に対する存在でしかない。あくまでも私の延長線上にある。
 国民国家における忠義の対象は、国民であり、国家である。そして、国民、国家の大義こそ公義なのである。そして、それは建国の理念でもある。
 そして、国民の大義と建国の理念を一体化することによって善が実現する。
 そこに善があり、悪がある。

 現代社会では、個人と社会を対立的にしか捉えようとしない。個人の権利と国家の権利は常に、相反しているように考える。経済も競争が全てであるかのように捉える。話し合いの余地も妥協の余地も一切認めない。だから市場は修羅場となる。経済では平和な時の価値観は通用しない。ただ、争い、競い、闘うのみである。
 だから、平和な時の善悪の基準は通用しない。戦場の価値観によって支配される。他人を欺き、だまし、出し抜くことを美徳する。しかし、争いの場の価値観を義としたら平和、静謐な時は訪れない。

 個人と全体との義が一体となった時こそ、真の自由は実現されるのである。
 真善美一如。それこそが善なのである。そして、善が確立されてこそ悪は際立つ。





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