指導すると言う事


指導すると言う事

 人を指導する、教えるということほど難しい事はない。
 何が難しいかって言うと、自分は人を教えるほどの技量があるかという事である。それに、人を指導するのには技量だけではすまない。技量よりも人徳、人間性のようなもの方が大切だったりもする。そうなると、自分には人を指導するだけの力や特が備わっているか。余程、自信があるか。傲慢な人間にしか人を指導する何できない。しかも、自信なのか、思い上がりなのかそれも紙一重である。そして、俺の言う事が聞けないのかとふんぞり返っているものは、大概の場合、人を指導するに値すると言うよりも自信過剰なのか、傲慢なのかのいずれかの人間である場合が多い。

 人を指導するためには、相手の三倍努力する必要がある。つまりは三倍の能力が要求される。知識は技術は日々進歩する。人間としての修練は一生続く。日々、研鑽をし続けなければ、人を指導することはできない。

 人は、皆、違う。人それぞれの個性に合わせた指導が必要とされる。
 今の教育者の多くは、生徒を見ていないことが多い。生徒を見ないで教えようとしても生徒は受け入れはしない。
 相手に対する偏見、独断、決め付けは禁物なのである。人の心は毎日変わるのである。日々、相手の変化を凝視しなければ、指導は成就しない。

 教育とは、相手の可能性を信じることなのである。

 人を指導する上でやってはいけないことがある。
 例えば、第一に、相手が直すことのできない事を指摘する事である。盲目の人に向かって、目が見えないとか、足の悪い人間に走れと言うようなことは、悪質である。
 第二に、漠然としたことを指摘する。例えば、おまえは甘いんだよと言ったことである。どこがどう甘いのか。どこを改めたらいいのか、これでは改めようがない。
 第三に、或いは一般論を持ち出す。人間は、苦し紛れの嘘をつくとか、誘惑に弱い者だとか、酒の飲めない奴は駄目だと言った類である。
 第四に、無闇に相手の名誉や人格を傷つける。子供にだって自尊心はある。一寸の虫にも五分の魂である。

 人を指導する為には、相手が自分を受け容れてくれなければならない。心を開かない人間にいくら教えたところで身に付くものではない。自らが胸襟を開いて相手を受け容れない限り、相手は自分を受け容れたりはしない。自分の言うことに耳を傾けない、心を開かない者を指導することなどできないのである。
 尊敬もできない人間に頭ごなしに教えられれば厭な記憶しか残らないものである。厳しい指導も相手を敬う気持ちがあるからできるのである。

 人は愚かです。しかし、愚か者を愚か者と嘲笑っているだけでは、伴に生き、伴に事を為すことはできない。
 愚かなることによる哀しさ、苦しさ、辛さ、痛さを共有し、共感し、相手の懐に飛び込んでこそ、はじめて共に生活することができるのである。

 驕慢、傲慢は罪である。驕慢な人間は、人を指導することはできない。

 相手の力や可能性を認めなければ、人を指導することはできない。相手を馬鹿にしたり、軽蔑していたのでは教育なんておぼつかない。
 相手の良いところを認めるから人を指導できるのである。

 克己復礼。
 指導者が恐れるべき者は自分である。自分に負ければ、弟子、生徒を誤った道に導くこととなる。
 己の慢心、増長は、目を曇らせ。生徒の才能や可能性の芽を摘んでしまう。指導とは、己との戦いに過ぎない。人を指導する時し、己自信と向き合う時でもある。
 教育の根本は、例である。相手を敬い、思いやる心である。慈悲、慈愛である。

 指導下手の人間の多くは、物わかりが悪い者が多いのである。相手を受け容れる事ができないのである。
 物わかりが悪いから人の長所、欠点が見抜けないのである。人の長所、欠点が解らなければ、必然的に、長所を伸ばして欠点を抑えるなどという事は出来やしないのである。

 大体、物わかりの悪い人間のとる態度は、第一に、自分より優れた人に出会うと、見下したような態度、横柄な態度をとる。第二に、強圧的になる。第三に、急に感情的になる。攻撃的になる。第四に、専門的な用語やカナ文字を意図的に、意味もなく多用する。第五に、論点を逸らして問題をはぐらかそうとする。第六に、なんだかんだと口実を設けて逃げる。決断を先送りする。第七に、重箱をつつくように些細な事、つまらない事を見つけだしては、注文を付けたり、変更したり、又、言葉尻を捉えて責めて、自分の力を誇示しようとする。そこで妥協すると、それが仇や疵となって失敗をする。
 こういう態度をとる人間に出逢ったら、解っていない人間だと思えばいい。

 昔、軍隊では、恐怖が支配していた。鉄拳制裁によって無理矢理服従心を相手に植え付けたのである。それも教育と言えば言えないことはないが、どちらかというと教育と言うよりも洗脳と言った方が良い。

 恐怖心に訴えて教育するのは、見かけは効果があるように見えるが、その実、心から納得しているわけでしないから、人格のどこかに歪みを生じさせる。

 人を指導するには、相手を畏服すべきなのであり、恐怖によって支配してはならない。





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