理想の教育を求めて


暴力装置


 暴力装置という言葉に嫌悪を抱くとしたら、それはお門違いである。
 
 何でもかんでも暴力は悪いと今は躾ている。理由如何を問わず暴力は、暴力を振るった方が悪いという事になる。この世の中は全て、非暴力という道徳に従って動いていて、暴力を振るった方を無条件に悪いとすれば丸く収まると教育者は固く固く信じているようである。
 では、暴力を振るった人間を誰が、どの様にして窘めるのかという事は忘れている。暴力を振るう者は、暴力によって自分の意志を押し通そうとしているのである。暴力を使ったことで、自分の意見が通ってしまえばそれが正しいと言うことになる。

 暴力を先に振るった者が常に悪いとなったら、なぜ、暴力を振るわざるを得なかったのかという健勝はなされなくなる。正当防衛も認められず。場合に依ったら、自分の身を護ることさえ許されなくなる。

 相手からどの様な不当な攻撃を受けてもじっと耐えることしかできなくなる。
 凶暴な相手に対し、どの様な危険が差し迫ったとしても反撃すら許されない。
 自分の家族や友人が理不尽な攻撃をうけても、何もできないことになる。
 自分の名誉を守ることさえ不可能である。
 それを正義というのであろうか。

 自分の愛する者が暴漢に襲われ時、黙って逃げてかえれと自分の子供に躾ることは私にはできない。私の名誉がそれを許さない。
 私の名誉な対して理不尽な扱いを受けたら、自分の名誉をかけて私は闘う。戦えなければ、最初から名誉などなきに等しい。

 武力という存在も否定し、と言うより、まったく無視している。
 武力を頭から否定すれば国を護ることはできない。国を護ることができないと言うことは、自分の愛する者や愛する物を護ることを最初から放棄していることである。

 国家というのは、暴力装置なのである。
 暴力装置だからこそ、暴力の本質を学ばせ。暴力を抑止する術や道徳を身につけさせることが可能なのである。




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