何を信じたらいいのか


CK 何を信じたらいいのか


 何を信じればいいのかとそっと呟く。
 信じられるものなんて何もありはしない。
 戦争に負けてから日本人はそれまで信じてきた何もかもをかなぐり捨てた。
 それじゃあ科学を信じられるかだって・・・。
 科学は、元々仮説の上に構築された論理。
 幻を信じたところで虚しい。
 キリスト教徒やイスラム教徒には、信じるべき神が居られる。

 人は、自己の存在意義が問われるような境遇に遭遇した時、自分が信じるにたる存在や自分の存在を保証してくれるような対象が見出せなければ、自己の存在の根源である主体性を喪失し、そして、狂う。

 己(おのれ)は何者なのか。いずこより来て、いずこへと行こうとしているのか。
 それは、科学では解き明かせない謎なのである。
 だから、こそ信じる事を教えられなければ、教育はその目的を達せられない。

 鬱を精神の病と決め付けるのは短絡的にすぎる。
 人は悩み苦しむ。それは、病ではない。
 人が悩む苦しみ鬱々となるのは、自己の存在意義の根源的問題である。
 それは、価値観、倫理観、道徳、正義、信仰の問題である。
 何を信じ。何が正しいのか。そのことで悩むことを病だとして片付けたら、人が人として築き上げてきた文明も文化も全て捨て去るのに等しい。人としての心、在るべき姿を否定する事である。
 人は悩み苦しむが故に人なのである。
 ただ悩み苦しんだときに、依るべき物がなければ、人は暗闇の中を当て所もなく漂うことになる。
 だからこそ、信じる事のみが救いになるのである。
 神を無条件で信じられる者は幸せである。
 全身全霊を賭して尽くすべき相手がある者は幸せである。

 そこに神があり、家族があり、公や国がある。
 大義は、人を救うためにのみありのではない。
 何よりも、自らが救われんが為にもあるのである。

 道徳は、自分を護るためにある。
 体面を取り繕うためにあるわけではない。

 鬱病の最大の原因は、信じるべきものがない事である。
 苦しい時、辛い時、逆境にある時、自分の精神を保つための核となる信じるべき対象がないことが精神の病の根源なのである。

 何を信じるか。それは、人それぞれの心根にある。

 何でもかんでも科学で解決できるとし、或いは、病気のせいにして、薬に頼ろうとするのは、唯物主義の悪癖である。
 大体、唯物だとか、唯心だとかという議論に振り回される必要はない。

 確かに、薬によって鬱状態は緩和されるかもしれない。
 しかし、生き方を、価値観を変えないかぎり抜本的な治癒には至らない。
 大切なのは何を信じて生きていくかなのである。
 信じるべき対象をいかに子供の頃から与えられるか、教育の本質はそこにある。


人を信じられますかって聞かれたら、信じられる分けないでしょって僕は応えます。
だって今の世の中、人を信じられるような世の中ですか。信じられませんよね。
親が子供を虐待し、子供は親を見捨ててしまいます。
こんな世の中で何を信じられるというのですか。
信じられますかって聞かれたら、信じられませんと答えるのです。
ただ、誤解しないで下さいね。
僕は、信じられるかと聞かれたから、信じられないと答えるだけなんです。
僕にとって信じられるか信じられないかなんて意味ないんですね。
僕にとって信じられるか、信じられないかの問題ではなく。
信じるんです。
信じる信じないは自分の問題。
世の中がどうあろうと、相手がどうあろうと、信じなければ生きていけないんだったら、命懸けで信じるんです。
僕はそうやって生きてきた。

人は、皆、愛されたい。愛されたいと言いますが、愛の真実は、愛する事にこそあると思います。
愛されたい、愛されたいと思っている内に、愛する事を忘れてしまっている気がします。
僕は、学生時代、誰も自分のことを理解してくれないと思っていました。
一生懸命、人に話しかけても、誰も、自分の話なんて聞いてくれない、そう思い込んで、人に話をするのを一時辞めました。
でも、ふと気が付いたんです。
自分が正しいと思うことを黙っていてもいいのかってね。
一生に一人でもいい。自分の話を聞いてくれる人に出会えばいいではないかってね。
そう思ったら、少し気が楽になりました。
それで思い返してみたんです。
誰も自分の話を聞いていないと言うのは、自分の思い違いではないかって。そう思ったら、結構自分の話に共感してくれた人いるんですね。でも、友達が、おまえの話、共感するよって言ってくれても、その時は、なに言ってんだ、わかりもしない癖に、おためごかしの事言うなって自分で自分の耳を塞いでいたんですね。
信じると言う事は、愛する事にも繋がるんですね。
相手を素直に受け容れる気持ちが生じたら、そこから、違った世界が見えてくる気がします。その為に、傷ついたとしても、傷つくことを怖れて何もしないよりも素晴らしいと思えるようになったんです。
先ず自分を信じることです。
自分なんて駄目な人間だなんて決め付けないことです。
今でも、僕は、自問自答します。
なにを恐れているのかと・・・。
おまえが信じられないのは、相手ではなくて、信じようとしている自分ではないのかと。ウディガスリーが、僕は、聞く人が誇りを持てるようになる歌が歌いたいというくだりがあるんですね。なぜなら、人は、皆、弱いし、小さすぎるし、大きすぎるし、醜いし、弱すぎるし、傷ついている。だから、僕は、聞く人が自信を持てるような歌を歌いたいってね。
僕は、信じるんです。信じるしかないじゃないですか。自分の未来を自分の可能性を・・・。だから、信じられるか、信じられないかなんて関係ないんです。





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