忠と孝



 戦前の人間の徳目は、忠と孝であった。だから、戦後は、この忠と孝が徹底的に否定された。
 戦後は、忠と孝は、徹底的に目の仇にされ、諸悪の根源であるように言われてきた。しかし、日本人は、どこか忠と孝を捨てきれないでいる。

 結局、日本人は、忠義が好きなのである。
 その証拠に、日本人は、時代劇が好きである。時代劇の中心テーマの多くは、忠と孝である。また、忠と孝を土台にすると劇そのものが解りやすくなる。その解りやすさが、低俗だと感じさせてしまうほどである。
 又、歴史劇にしても、武士が活躍した時代の話、特に、幕末の話の中心は忠である。明治維新後の帝国主義以前の話しでもその根本は忠である。
 時代劇の中でも、日本人は、忠臣蔵が好きである。今でも、年の瀬になるとどこかで忠臣蔵が上演される。
 そして、多くの日本人は、武士に憧れ、日本人魂、大和魂の淵源を武士道に見出す。武士道の徳目の根本は忠にある。
 考えてみれば、近代日本人の武士道の根底は、忠臣蔵にある。

 今の日本では、忠や孝は、禁句である。それでも、日本人は忠が好きである。それはテレビドラマや映画、漫画を見れば解る。なんだかんだ言いながら、忠義の話が隠されている作品が多く見受けられる。
 忠という思想は、日本人の遺伝子レベルまで浸透している証左の様に思える。

 今の日本で忠だの孝だのと言うと国賊扱いである。そうでなくとも、変人扱いされるのがおちである。それは、軍国主義や帝国主義の根本理念を忠と孝に求めるからである。忠と孝は、封建思想の権化のように見なされている。
 しかし、戦前の日本の徳目は、忠と孝につきた。
 戦前と戦後のこの落差が何を意味するのか。ここに忠や孝という概念の秘密が隠されている。

 戦後の日本人は、忠誠心というと封建思想か、君主制の名残のように思われている。民主主義国家のアメリカですら国家への忠誠は、重んじられるし、それこそ、社会主義国のような全体主義国家においては、国家体制への忠誠は絶対である。なぜならば、民主主義国も社会主義国も国家という理念に基づいて建国された体制であり、国家への忠誠なくして、国家の統制は成り立たないからである。

 忠誠心は、全体主義国、国家主義国、独裁主義国、帝国、軍国主義国、封建主義国のみに求められる徳目ではない。
 むしろ、国民国家においても重要な徳目の一つである。

 忠とは、盲目的な個人崇拝ではない。本来、仲間に対する連帯感から生じる感情である。
 仲間は、絶対に裏切らない、又、仲間を絶対に裏切れない。なぜならば、仲間は、自分の名誉の源であり、仲間は、自分だけではなく、自分の家族や生命、財産、名誉を護ってくれる存在だと信じられるからである。

 忠とは働きである。
 忠とは、誠を尽くすことである。

 忠義と言うが、何に対して、誰に対して忠なのか。時代や体制によって忠の意味も違ってくる。君主制度では、臣下、国民国家では国民に求められる徳目と思われがちだが、忠は、総ての人間に求められる徳目であり、君主は、臣下への忠が、国家は国民対する忠が求められる。つまり、忠という働きは、一方通行の働きではなく。双方向の働きである。

 主君の意味にある。士は己を知る者のために死す。士は、二君に使えず。士は、自分が使える君主を選べた。世襲制度が定着するに従って主君を選ぶことができなくなった。それでも、君主は一人ではなかった。それが、中央集権体制が確立するに従って、絶対君主、即ち、主君は一人に絞られるようになる。それが天皇制が確立されるのに従って、君主の絶対性が高まり、天皇に対する直接的な忠誠が求められるようになる。戦後は、この対象が国家へと理念的には変移したが、戦前の体制に対する警戒心から中途半端なものに終わっている。

 国民国家における主とは、国民である。故に、国家元首でも国家、国民に対する忠誠が国民国家においては認められてしかるべきなのである。
 忠とは、絶対者や独裁者に対する絶対的服従を意味するわけではない。ただ、独裁主義国や全体主義国は、独裁者に忠誠を求めると言うだけである。
 明治維新は、忠義の臣が起こした事であり、国民に忠たらん為に革命を起こす者もいるのである。この事は、忠が盲目的な服従を意味するのではない事を証明している。
 忠義とは、義に対して誠実であることを意味しているのである。換えって盲目的な服従は忠に反する。なぜならば、忠とは主体的な意志より発する行為だからである。

 国家とは体制である。国家体制とは、仲間、同志の延長線上にある。だから、自由主義国、民主主義国では、自由、平等と同等に友愛が重視されるのである。友愛とは、同志愛である。この点を友愛を博愛と訳した日本人に錯覚がある。友愛とは、同じ志を持った仲間に対する情誼である。
 だから、国民国家においては、仲間を象徴する旗が重視されるのである。そして、旗が象徴する仲間や国家に対する忠誠が求められるのである。

 忠誠心と言うがその対象は、基本的に仲間や集団に対するものだ。個人に対する忠誠というのは、観念としては、解るが現実としては受け容れがたい。困難に一人で立ち向かうと言う事は、何よりまして怖ろしい。孤独から来る恐怖心に打ち勝つために、仲間や集団を必要とする。仲間に対する要請が忠誠心を育むのである。

 仲間は自分を決して見捨てないという確信もてれば、人間は安心立命の境地になれる。そして、ひたすらに自分の誠を尽くせば忠となる。それが本然の忠義である。

 国民国家においては、国家、国民への忠誠がなければ、国家が成り立たない。国民国家を支えているのは、国民の国家に対する忠誠心である。国家に対する国民の忠誠心が権利と義務を生むのである。国民の権利もや義務は国民の国家に対する忠誠心がなければ有効に機能することはない。

 孝があって福祉は成り立つ。親心、孝心がなければ福祉は成り立たない。
 多くの日本人にとって以外かも知れないが、ニーアル・ファーガソンは、「マネーの進化史」(早川書房)の中で欧米では福祉制度が破綻したのに、日本では、福祉制度が順調の機能し、日本は、「福祉超大国」になったと述べている。日本人は、福祉制度の手本を外国に求めるが、外国からみると日本の福祉制度こそ手本とされるべきであり、日本人は、世界に誇るべき福祉制度を、失敗例を手本にして破壊している様に見えるらしい。馬鹿げた話である。戦後の日本人には、妙な劣等感、僻み根性があり、自国のことに誇りが持てず。他国の真似をして、折角、築いた大切な宝物を自分手で打ち壊している様なところがある。

 なぜ、1970年代に於いて欧米で上手く機能しない福祉政策が、同じ事をやっても日本では有効に機能するのかというと、当時は、64歳以上の者の三分の二が子供と同居していたとし、失業保険があったとしても雇用主は、解雇することを躊躇したからだという。それに対し、欧米では、個人主義が発達していて、国民は、年老いた両親を公共サービスに委ねることに躊躇せず、失業保険があるという事で、景気が悪くなれば躊躇(ためら)うことなく人員を削減した。その為に、景気が悪い時に、政府は財政出動をせざるを得なくなる。つまり、日本では、忠と孝の徳目が機能していたのである。
 ところが、2010年代に入ってくると無縁死や孤独死が問題となり、年金問題が表面化し、少子高齢化と財政破綻が深刻な社会問題になりつつある。それは、人間として当たり前の徳目として考えられてきた忠と孝が廃れてきたからである。孝だけが廃れたのではない。親としての心までもが失われつつある。
 この様な風潮は、日本の福祉制度を根底から覆しかねない。
 仏造って魂を入れず。肝心の心を置き忘れた福祉制度などかえって始末が悪い。孤独な年寄りを増やすだけなのである。
 金を与えておけば、子供は幸せになると言う誤った考えが蔓延したからこそ、殺伐とした、荒廃した社会になるのである。
 立派な設備を整えたからと言って老人が癒されるわけではない。いかに立派な設備でも温もりも愛情もなければ、虚ろな空間である。立派であればあるほどかえって空しい。幸せとは何かという根源的問題を忘れているのである。
 問題は教育である。徳目を忘れた教育は教育の本質を失っている。

 結局、国民国家を支えているのは忠と孝である。故に、忠と孝は、国民国家の根幹をなす徳目でもある。

 忠と孝という徳目に於いて大切にされなければならないのは、公(おおやけ)という概念である。公序良俗という言葉も死語になりつつある。しかし、公(おおやけ)と言う思想が失われれば、社会は成り立たなくなる。

 私(わたくし)の延長線上に公(おおやけ)がある。公(おおやけ)というのは、私の延長線上にある概念であり、私と二律背反にある概念でも、対立する概念でもない。特に、国民国家における公は、私が客体化した個人と対立する概念ではない。国家に対する忠は、自分に対する忠でもある。

 国家に対する忠と自分に対する忠を一体的なものとして捉えられないところに、現代日本人の不幸の種がある。
 国民国家の多くは、国民の蜂起によって建国された。当然、建国以前の国家に対しては、叛逆である。また、国民国家建設の中に世界主義、地球主義、人道主義が混入している場合があり、それがまた、事態をややこしくしている。
 しかし、例え、革命によって造られた国家だとしても、否、革命によって造られた国家だからこそ、国民国家においては、国家への忠誠が求められるのである。
 その点が、敗戦によって外から国民国家や民主主義を与えられた日本人にはよく理解されていない。敗戦後の日本人にとって所詮、国家も民主主義も勝者から与えられた賜に過ぎないのである。愛着もなければ、忠誠心も湧かない。ただそれだけの理由で忠誠心を否定しているのに過ぎない。
 しかし、それでは国も、仲間も、家族も自分も護れない。本心から忠誠を誓える国に自分達の手で、自分達の意志で変えていく。それでこそ、真の忠誠、真の孝行である。

 国民国家における正しい忠と孝の在り方に対する教育こそ、今、求められているのである。



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