職場の在り方が文化を決める


 企業は、現代文化の基盤である。企業の在り方が現代人の価値観を形成し、文化を生み出している。企業、即ち、会社という形態は、まだ成立して間もないのである。しかし、その会社の在り方が現代人の価値観に重大な影を落としている。この点を見逃したら、現代教育の問題点を明らかにすることはできない。
 企業文化は、定収入、定年にその典型がある。
 定収入化と言う事が企業の一つの目的である。定収入化が実現する事によって借金の技術も発達したのである。そして、企業文化は、借金の文化でもある。
 定収入が確保されることによって生活にゆとりができ、又、長期的な展望が開け、人生設計が可能となったのである。
 定収入というのは、月給、給与によって、即ち、貨幣によって支給されることによって安定する。そして、この事は、貨幣経済を社会の隅々にまで浸透させたのである。
 この様に長期に渡って安定した賃金が支払われることによって中、長期に渡る借金やレンタルが可能となる。定収入が借金の技術を発展させる契機となったのである。

 又、定年というのは、職場から共同体性を削ぎ落とす結果を招いた。定年制は、人間の仕事を有限なものにし、会社を共同体から機関へと変質させたのである。録をはむという事と月給取りというのは本質が違う。
 骨を埋めると言う考え方は失われた。
 世襲と同族という考え方に対しても否定的な風潮を生み出したのである。家業という発想は、封建的、古くさい考え方として批判の対象とされるようになった。当然、愛社精神だとか、忠誠心とかは真っ向から否定されてしまった。会社に対し、家庭的、即ち、共同体的人間関係は求められなくなり、ただ、労使という関係でしか人間関係は成立しなくなった。そして、使用者と労働者は対立概念でしかないのである。この点を忘れてはならない。使用者と労働者は永遠に分かち合うことのできない存在なのである。
 苦楽を共にできない、不倶戴天の敵が使用者と労働者である。
 会社と家庭や国家は違う、家庭や国家は共同体であり、死ぬまで関係は続くのに対して今の会社は、一定期間、所得を得るために所属する機関に過ぎない。所得を得るとは、要するに、金儲けのための機関だと言う事である。金儲けという限定された目的のために一定期間、即ち、限定された期間勤める機関に過ぎない。つまり、共同体は、無限であるのに対し、会社というのはどこまで行っても有限な機関なのである。そのことは、仕事も有限な行為にしてしまっている。
 仕事は一生掛けるものではなくなってしまったのである。家事や子育ては、一生の仕事であるのに対し、会社の仕事は、一定の期間に限定された行為に過ぎない。一生の仕事である家事に比べて会社の仕事の方がやりがいがあるなんて誰が考えたのであろう。なぜ、生涯の仕事を棄ててまで限りある仕事を勧めるのであろうか。
 以上の考え方が企業から生まれた文化の根底を成している。
 そして、この様な仕事に対する考え方は、小学校、否、保育園、幼稚園の頃から子供達の価値観の根底に刷り込まれていく。

 定年制度というのは、人生を断絶する制度である。それまで積み上げてきた知識や経験を全て一度リセットしてしまい。全てを零からやり直させる事を意味する。
 定年の年齢に達した者を学校を卒業したばかり、成人に達したばかりの人間と同等に扱うことを意味する。就職も仕事の内容もまったく、同じ扱いを受ける。礼節を否定している今日では、人間としても同等の扱いを受ける。そこには、自尊心や人間性など欠片(かけら)も認めようとしない思想がある。
 労働は、奴隷がするものだという間違った植民地主義や奴隷主義の労働観が根底にある。
 労働は悪であるという欧米流の思想では、とにかく休日を減らすことに全精力を傾ける。働く事が大嫌いなのである。怠惰や怠け者は美徳なのである。
 本来、労働こそが自己実現の手段なのである。人間は、一生働き事にこそ意義がある。働く喜びを感じられなくなったら、生きる意義さえ失われてしまうのである。人生を一生というように一つの生き方が貫けて始めて幸せなのである。
 むろん、労働といっても過剰な労働は、制限されるべきである。しかし、それは労働を苦役だとして否定する事にはならない。
 定年制によって愛社心にも定年が生じる。愛は、不変的な感情である。しかし、定年制というのは、永遠とか、永久(とわ)とか、普遍的という発想からは生まれてこないし、生み出すこともない。愛にも、仕事にも、何でも制限があるという事を前提としている。
 人生にも定年ができる。夫婦関係も一区切りできてしまう。親としても定年がある。結局、それが家庭を崩壊させ、孤独死や無縁死を生み出す原因となるのである。
 企業を継続していこうという意志を失い。極力、報酬だけを余計に獲得しようと言う動機が働くようになる。

 会社が、共同体ではなく、機関だとなると会社への忠誠心は,持ようがなくなる。また、唯物論者は、もともと、会社と働く者達とを対立的に捕らえてきた。会社への忠誠心など唾棄すべきことなのである。当然、団結力や結束力など失われてしまう。
 会社や仕事に対する使命感や道徳観もなくなる。労働者としての権利が先行するから例えば、病人がいても看護士や医者は、自分の権利を優先するようになる。仕事は、単位時間×単価でしか計られなくなる。
 管理者や経営者からも責任感が喪失する。なぜならば、管理者も経営者も使用人、雇用者に過ぎないからである。責任がなければ当然決断もできなくなる。
 会社から公という発想が失われ、全てが私事に還元されてしまう。故に、自己犠牲など美徳どころかとんでもない事となる。
 自分の人生から仕事や職場が切り離され、無縁なものになり、当然のように、疎外される。
 仕事に対するモチベーションも年齢とともに失われる。 
 定年が意識されるようになれば、仕事への継続心も持続力、集中力もなくなり、散漫になる。辞めるとわかっている者の約束など誰も信じなくなり、また、確約もできなくなる。つまり、信用されなくなる。
 先のない人間の言う事な誰も聞かなくなる。当然部下に対する統率力や指導力も、求心力も失われる。
 その様な指導者、管理者、責任者が統率する職場では、志気もモラルも低下する。又、責任ある立場にいるものでなくとも仕事に熱が入らず、責任ももてなくなるから周囲の人間の志気やモラルに悪影響を及ぼす。
 仕事や組織の一貫性や継続性が保てなくなり、必然的に、人生の一貫性もなくなり、企業からは継続力がそがれていく。

 この様な考え方が敷延化されると、人生が部分部分に断片化され、全人格的なものでなくなってしまう。
 よく会社や学校にいる時と家庭にいる時とは生き方を使い分けろとか。趣味に生きろと教える者がいる。しかし、それは、会社に勤められる期間が限定的だからである。一生一つの仕事を貫き通す者にとって、その場その時に、使い分けるなどと言う器用な生き方は、一般的にはできないのである。定年によって仕事を断絶せざるを得ないから、又、断絶されることを前提とするから、否応なく、生き方を切り替えることが要求されるのである。
 会社にいる時、家庭にいる時、友達といる時で、価値観や生き方、考え方を変えたり、言う事がマチマチだったりしていたら、人格を一つに統合し、保つことは不可能である。
 又、公の顔と私的な顔とが別々になり、価値観や人格が分裂してしまう。これらは明らかに精神病の原因となる。
 人格は一つに統合されていて、はじめて、精神を一定に保つことができ、自分自身にとっても、また、他人からも信用されるのである。逢う人毎に言っている事もやっていることも違っていたら、誰からも信用されず、又、自分だって信じられなくなる。この様な職場の在り方が、人間の精神を狂わす原因となっているのである。

 日本には、かつて、終身雇用や年功序列と言う思想があった。家族主義という発想が成り立っていた。現代では、それを封建的とし、経済的効率性を優先することで失われてしまった。

 企業は、職場を運命共同体から機関に変質させてしまった。それは、共同体的人間関係を崩壊へと導いたのである。
 単なる機関では、互助精神は無縁である。義理も人情も無縁である。同僚が生活に困ったり、人間関係に悩んだりしたところで関係ない。それこそが、現代社会の根本文化である。
 人間は、物でしかない。それが唯物主義である。唯物か、唯心かという馬鹿げた議論も物としての人間を前提とするから成り立つのである。

 心も感情もある生身の人間を前提としたら、成り立たない。成り立たないはずの社会が現代である。真面目に努力した者が報われない社会はどこかおかしい。経済に勝ち負けはない。あるのは生活だけである。
 苦楽を共にする。同じ釜の飯を食った仲間、お互い様、お世話様、お陰様と声を掛け合って日本人は生きてきたのである。感謝する気持ちを失わないで、日々、真面目に勤勉に働き続けたのが日本人である。
 喜びも、哀しみも分かち合い、苦境でこそ身を寄り添って助け合って生きていく。そう言う、共同体を再構築しないかぎり、人間として生きていくことは困難な時代である。





                content         


ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、 一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2010.8.10 Keiichirou Koyano

教   育