教育と思想

 思想を思想として教えないところに、現代教育の欺瞞がある。

 思想の基本は、理念である。理念とは思想である。しかし、教育の中立性や公平性を楯にしてあたかも思想なきがごとく教育をする。その弊害は、甚大である。

 人に迷惑をかけてはならない。人に迷惑をかけなければ何をしてもいい。
 他人は、他人。他人の意見は尊重しなければならない。
 人を差別してはいけない。人は、皆、平等である。男女は、同じである。全ての子供は、平等、かつ、公平に扱わなければならない。差を付けてはならない。
 世界は、一つである。古い考え方は、間違いである。伝統は、古くさい。礼儀・作法なんて古くさい、封建時代の遺物である。礼儀・作法は、形式である。型に填める教育は良くない。権威主義は、封建主義、全体主義である。儀礼は良くない。儀式式典は、儀礼的だから良くない。
 国家意識は、全体主義である。国家、国旗は、侵略主義の象徴である。
 神など存在しない。迷信である。
 何でも疑ってかかれ。
 他人の人権を尊重してはならない。相手の意見を尊重しなければならない。話せば解る。
 命を大切にしなさい。
 子供にも人権がある。子供の意思を重んじるべきである。最終的な判断、選択は、子供の意志に委ねるべきである。
 その人その人の個性を大切にしなければならない。
 人は、皆、違う。個性を尊重しろ。個性とは、他人と違ったことである。人と違うことをやるのが、独創なのである。
 常に、開かれた環境において、一人一人の個性を伸ばすべきである。

 当人の自由意志を重んじて、なるべく型に填めないようにすべきである。
 子供の自発性を重んじなければならない。
 強制してはならない。強要してはならない。
 少数意見を尊重しなさい。多数決を重んじなさい。
 経験、体験によって自覚させるべきである。
 他人に暴力を振るってはならない。暴力反対。体罰はいけない。暴力を振るったら、無条件で暴力を振るった方が悪い。泣いたら、泣かせた方が悪い。
 イジメは悪いことである。どんなイジメもしてはならない。
 言論の自由は尊重されるべきである。形式にこだわる必要はない。
 なぜ、挨拶をする必要があるのか。

 これらは思想である。しかし、教育界は、思想だとは言わない。常識、良識だという。そして、真理、道徳だという。
 その根拠を教科書においている。しかし、教科書の制作者の意図を問題とせず。あたかも聖典のように扱い、反面、自分達の意図に反する教科書を偏向教科書として排除しようとしている。国家による検閲を非としながら、教育者による検閲は、問題にもしない。その独善的姿勢にある。
 自分達の考えを絶対的真理のように扱い、その一方で、この世には、絶対的なものはなく。全ては相対的だとしていることである。言い換えると、自分達は、絶対的であり、自分達以外は全て相対的だと言っているようなものである。
 是々非々を私は言うのではない。自分達の言い分は、絶対的真理であり、批判を差し挟まないと言うところに問題があるのである。
 大体、暴力反対と言うが、革命思想を根底に持つ者は、暴力革命を前提としている。純粋に非暴力主義者というのは、狂信的に一部の宗教家ぐらいである。もう一つ言えば、非暴力というのは、思想を超越した一種の修業、信仰に近い。また、非暴力と、無抵抗主義というのは、共通したところがあるとはいえ、同一の思想ではない。
 同様のことは、愛国心にも言える。愛国心というのは、民族主義者や独裁主義者のみが提唱しているわけではない。大体国家という概念からすると、民族主義は、国権と対立することもある。逆に社会主義や共産主義の一部は、国家統制を重んじている。愛国心は、右翼だと決め付けるのは短絡的である。
 教育者一人一人の意見も何らかの思想に基づいている。その思想を明らかにした上で、社会的な合意を形成していくのが民主主義的な手続である。それを無視して、一方的に自分達の考え方を押し付けるのは、非民主的行為である。
 日常的な行動規範、行動指針、行動基準ほど倫理観に直結している基準はない。逆に言うと、思想そのものと言っていい。それを思想と言わずに絶対的真理だとしている事を、私は、問題としているのだ。
 答えを上手く誘導していながら、自分達はハッキリとした意見を言わずに、子供達を洗脳していく。それを欺瞞だというのである。
 要は、教育者は自分の思想を可能な限り明らかにし、保護者や地域社会、国家の了承、承認を受ける必要があるとういうことである。なぜならば、教育は私的行為ではないからである。
 思想は、思想として教え。自分の考えが確立した時に、改めて、自分の価値観として再構築できるようにすべきなのである。それこそが選択の自由である。
 
 国家や郷土を大切にしなさい。愛国心。
 国家、国旗に敬意を払うべきである。
 秩序を重んじなければならない。
 規律は重要である。
 礼儀作法を守りなさい。克己復礼。
 日本人としての自覚を持て。
 命令には従いなさい。
 口答えは止めろ。言い訳はするな。
 男らしくしろ。泣いたら負け。
 男なら我慢しろ。
 けじめは大切である。
 名誉を守れ。犠牲的精神も必要である。
 意地を持て。権威を重んじろ。
 意味もなく、暴力は振るうな。女子供、年寄りはいたわるものである。
 力のある者が、最後には勝利する。弱い者イジメはしてはならない。
 人には、個人差がある。それぞれの能力に応じて社会の貢献しなければならない。
 世の為、人の為になる人に成りなさい。
 偉くなれ。出世しろ。
 金を粗末にするな。
 親しい人間と貸し借りはするな。
 人は、家族のために戦わなければならないときがある。
 愛する者を命懸けで守れ。
 悪の栄えたためしはない。
 年寄りを大切にしなさい。年寄りの言うことは聞くことである。
 親子、兄弟、家族を大切にしなさい。
 先生の言うことをよく聞き、先生の指示に従いなさい。
 祖先、先祖を敬いなさい。
 歴史、伝統を重んじなさい。
 祭礼を大切にしなさい。
 神仏を尊びなさい。
 朝夕の挨拶を欠かさないように。
 感謝する気持ちを忘れないように・・・。

 これも思想である。と言うよりも、これらは、偏向思想だと決め付けられやすい事柄である。
 真理だとされている事、偏向的だとされている事、その何れもが、思想なのである。ただ、危険なのは、思想は思想だと教えないと、結果的に、洗脳したのと同じ効果があると言う事である。一方を当然のこととし、片方を異常な事だと言う前提で教える事は、教育ではなく。洗脳である。思想は思想として明らかにし、その上で、教育すべきなのである。それならば反論も許される。反論が出来ないようにしておいて、一方的に一つの考えを刷り込み、植え付けるのは、洗脳教育である。

 思想というのは、日常的で些細な判断によって浸透していくという事である。子供の行為の何にを叱り、何を褒めるか、それこそ思想行為の表れである。
 避妊を教える事は、避妊を是認することにも繋がる。だからこそ、慎重な対応が要求されるのである。避妊を教える前に、人間愛を教える必要がある。それは、行為は倫理観から生じるのであるから、行為の前にちゃんと倫理観を植え付けておく必要があるからである。
 行為は、結果的に人の心傷つけることがある。

 言葉も使ったらいけないと言う言葉が増えている。では、一体、誰が、どの様な基準で、どの様な手続によってそれを判定したのか。明らかにされない。いつの間にか、差別用語として使用禁止になる。その言葉がでてくる文学作品がいつの間にか排除される。これは、新手の言論弾圧、焚書坑儒に違いない。

 一番、間違っているのは、民主主義国は、無思想だと決め付けていることである。民主主義国、国民国家は、観念、理念が創造した国家体制である。つまり、思想的な国家体制だという事である。自由だから、公正だからと言うが、自由こそ、最も思想的な概念なのである。
 客観的事実と言うが、客観性とは何か。教育に客観性が入り込む余地があるのか。
 国民国家というのは、何が自由で、何が自由に反するのかを実務的に処理し、手続に基づいて要件定義をしていこうという思想なのである。
 自由なのだから、何をしても良いというのはおかしい。大体、何をしても良いという事自体、自由という思想だと決め付けられない。
 自由というのは、全く制約がない言う意味ではない。自分が自由だとする行動は、相手を制約し、不自由にしていることにもなりかねない。
 何でも自分で決めなさい。それが自由なのだからと言うのも一種の偏見である。自分がない者に自分で決めろと言う事自体、酷なのである。そして、未就学児童は、自己が確立されていないことを前提としている場合がほとんどである。だから保護者の意志が尊重されるのである。ではいつから、自己が確立されるのか。それには異論が多い。少年法に対する考え方を見ても解る。
 それは、立法が手続に則って法を定めて決める。法が定まれば、それに従うのが、国民国家のルールである。その基本も守れないと言うのならば、土台、自由主義教育なんてはじめから成り立たない。
 選択の自由とは、選択をしない自由でもあり得るのである。何をもって自由とするかは、思想的問題である。
 革新派とか、知識人という連中は、常に、自分達が正しいと言い張る。自分達以外の人間は馬鹿に思えてしょうがないのだろう。何せ、自分達は、前衛なのであるから・・・。
 そう言う人間が、人の意見を尊重してと言うのは、滑稽である。馬鹿にしている。それでいて自分の考えをいつも曖昧にしている。
 自分達は許されているが、相手には許されていない。一般大衆にも許されていない。なぜならば、彼等は無知だからである。それが彼等の言う自由である。
 革新派は、進歩、進化を前提とし、新しいことは何でも正しいとしているが、それは先入観である。大体、何が新しくて、何を古いかを決める基準は主観的なものである。
 同じ事を主張しても革新派にかかると自分達は、許されて、反対する者は許されないと思っている。
 日章旗は、許されないが、赤旗なら良いというのであろう。しかし、旗は旗である。日章旗に敬意は、表せなくとも、赤旗には敬意を表せるというのも思想の為せる業である。重要なのは、例えば、日の丸に敬意を表せと言うのも強要ならば、日の丸の敬意を表すなというのも強要である。思想なのである。そして、根本は、教育の理念なのである。
 勝手に日の丸の解釈をしてそれを勝手に教える事は無法である。
 そして、何を教育すべきかは、教育者個人の理念の問題ではなく。保護者や地域住民、国家の理念の問題だという人である。それを否定するのは、独裁主義的であり、全体主義的な発想である。個人の思想の自由を妨げる思想だからである。
 教育者が自由に教育できるという国を自由主義国とは言わない。それは、専制主義国か、無政府主義国である。教育というのは、教育者だけで成り立っているわけではないのである。相手があって成り立っているのである。民主主義を否定するならば、非民主主義国の教師になるべきなのである。
 民主主義の根本は、国家にある。そして、国家の法にある。

 もう一度言おう。自分達の理念を真理だと言い。敵対者の理念を偏向思想だと決め付けるのは止めるべきである。そして、真理なのだから何をしても許される。思想なのだから、言論の自由も与えないと言う考え方は、ファシズムであるという事を忘れてはならない。

 では、教育において何が根本思想かというと、人間いかに生きるべきかである。つまり、人生哲学である。この思想が、マルキシズムには、決定的に欠けている。

 教育の根本は、躾です。知識・技術の習得にあるわけではない。人間いかに生きるべきかである。それを身につければ、人間は、人間社会の中で生きていける。

 儒教では、人間が社会生活を営む上で身につけておくべき徳は、仁義礼智忠信孝悌だと言います。それを身につけることが生きていく術であり、それを身につけさせることが教育です。
 この仁義礼智忠信孝悌は、時代によって変化します。なぜならば、これらの言葉は働きを示す言葉だからです。例えば義とは、規範です。規範は、専制主義と民主主義では違ってきます。

 民主主義には、民主主義の器がある。
 民主主義には、民主主義の礼があり。民主主義には、民主主義の作法がある。
 民主主義には、民主主義の仁があり。民主主義には、民主主義の義がある。民主主義には、民主主義の智がある。民主主義には、民主主義の忠があり。民主義には、民主主義の信がある。民主主義には、民主主義の孝があり。民主主義には、民主主義の悌がある。
 それを教えるのが民主主義教育である。

 現代教育で一番の問題点は、無思想という事を前提としていることである。無思想を前提とした上で、反権威、反権力、反体制を是とし、それがあたかも、教育の大前提だと思い込んでいることである。その結果、何事にも懐疑的で、反抗的、叛逆的な行為を正当化しているという事である。

 民主主義国というのは、国民国家であることが前提である。つまり、国家を土台にして成り立つ体制である。民主主義とは、国民一人一人の幸せが国家の繁栄に結びつくとする思想である。
 自分の思想、自分達の家族の思想、自分達の社会の思想、自分の国の思想を民主的な手続を則って明らかに、それに基づいて教育体制を築いていく、それが民主主義国の鉄則である。
 教育というのは、教育者の私的思想によって為されるべきではない。国民国家における教育は、公のものである。



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