絶対と相対


 法や制度の多くは、決まるまでに、いろいろと議論され、紛糾した事でも、一旦、、結論が出て、正式に決定されると、所与の物として扱われ、不変的真理のように教えられる。会計制度が好例である。
 しかし、法や制度は、自然の摂理を探求するのと、わけが違う。人間の意志によって定められたものである。

 重要なのは、決まるまでにどの様な議論がなされ、どの様な手続き、手順によって定まったかである。つまり、過程が重要なのである。過程を無視して、結論だけを絶対視してしまったら、本来の問題点が見失われてしまう。
 この世の法や制度は、相対的な体系であり、絶対的な体系ではない。普遍的な法や制度はない。法や制度は、人間の意識が生み出した体系である。故に、人間の法や制度は、相対的な体系なのである。会計制度も然りである。人間の法や制度は所与の体系ではなく。人間が生み出した体系である。人間によって変えることが可能なのである。

 学校教育の問題点も同様である。決まるまでは、いろいろな議論があっても一旦決まってしまう、結論が出るとそれを所与のものとしてしまう。そして、絶対的なことのように教えられてしまう。それでいて、物事は全て相対的だとも教える。これほど矛盾した教育はない。
 たとえ、自然の法則でも仮定に過ぎないのである。物理学的法則が否定されたとしても存在は否定できない。それは、物理学は認識上の問題であり、存在上の問題とは次元が違うからである。自然の法則も探求する過程が重要なのである。
 人間が生み出した体系に絶対的なものはなく。全て相対的である。科学も仮説、仮定に過ぎない。
 特に、日本人は、一度、制定施行されると批判すら許さない。所与の法則として捉える傾向が強い。そして、学校では、教科書に所与の事実として記載する。
 こうなると教科書は、一種の聖書である。つまり、そこに書かれている事は、絶対的な真理と見なされてしまう。
 学校の教科書には、この傾向が強い。それは、試験制度が、学校の教科に基づいて、全国一律になされるからである。ある意味で、教育制度による全体主義である。この全体主義は、教義としての全体主義ではなく、制度としての実態に基づく全体主義であるから、その影響力は大きいうえ、実体的なものとなる。
 しかも制度だからその影響を受ける者は、無自覚になる。理念ならば反発のしようもある。教育は、共通性と多様性が両立しなければならない。それにしても、選択肢がなさすぎるし、当事者が蚊帳の外に置かれている。生徒や保護者という当事者の選択肢が限られているのが致命的である。
 
 土台、教えようとする事は、認識上の問題である。つまり、土台、教えようとする事は、相対的なのである。それをあたかも絶対的真理のように教えること事態が間違いなのである。ただ人を評価し、選抜するという目的の試験制度下では、曖昧な答えでは困るという都合から答えを一つに限っているだけである。
 試験制度を否定する気はないが、試験制度の欠点は欠点として補う必要がある。

 人が生み出すものは、不完全なものであり、完全なものはない。ただそれは、存在自体が不完全なのではなく。人間の意識が不完全だからである。科学でさえ、所詮、人間の意識の所産に過ぎない。当然、絶対的なものではない。相対的なのである。

 神は、存在を司り、人間は、意識の世界を創造する。故に、神は絶対であり、人の世は相対的なのである。

 絶対的というのは、他と比較せずにという事であり、相対的というのは、他と比較してという事である。他と比較せずにという事は、他に比較する物がないという事であり、他に比較してという事は、他に比較する物があるという事である。絶対的にという事も、相対的にという事も認識の仕方に関してであり、その対象そのもの問題ではない。ただ、本来、存在は、他と比較することによって存在するわけではない。故に、存在その物は、絶対的な物である。しかし、認識は、他との関係によってするものであるから、認識によって生じたものは相対的なものといえる。

 絶対的な基準は、基本的に他と比較するものがないのであるから、差が生じない。絶対的な基準に基づけば、差がないのだから、同等、平均的なところに落ち着く。しかし、それでは人間は対象を認識し、識別することができない。そうなると社会は成り立たないのである。なぜならば、社会は、人間の意識の所産だからである。

 故に、目の前にしている現象を相対的で、仮定に基づく法則を絶対的とするのは、本末の転倒である。絶対的なのは目の前で起きている現象であって自然法則ではない。自然の法則は相対的なものである。

 人間の認識は、差によって成り立っている。人間の認識が生み出す、意識も差によって成り立っている。意識が創り出す社会制度も根本の原理は、差によって生じるのである。しかし、存在には、本来差はない。つまり、存在において人間は、平等なのである。

 この明確に区分ができないと、我々は、対象を正確に捉えることはできない。
 そして、この現実を教える事ができなければ、社会は成立しないのである。

 絶対的なのは、存在である。認識は、相対的である。存在は完全である。認識は不完全である。この関係や状態が空なのであり、ダルマ(法)なのである。

 認識上の世界は、不安定で、一定しない。しかし、存在は、確固不動の世界である。認識が創り出す意識の世界も無常な世界である。




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