脳科学

 「バカの壁」(養老孟司著 新潮新書)がベストセラーになり、脳科学が脚光を浴びている。中には、脳科学万能、脳科学主義、脳科学で全てが説明できるといったような論調のものまである。

 科学者は、大概、一度は、全てを解き明かしたような気になる。しかし、それを更に突き詰めてみると実際には、何も解っていなかった事に気が付くのだ。

 大体、脳科学者は、脳が全てだという。遺伝子工学の人間は、遺伝子だという。心理学者は、心理学と言うし、生態学者は、生態だという。なんと言う事はない、自分の専門が一番良いと言っているに過ぎない。

 脳のこの部分が反応したからあなたの性格は、こうだと言われても、あなたは納得するであろうか。例え、脳の動きを視覚的に示されたとしても、それで何らかの問題が解明できたとは思えない。

 脳の構造が解ったとして、だから、どうだというのか。車の構造が解ったとして車のそのものが持つ本質まで理解したと思うのは、思い上がりである。車は、車を運転する者と一体となってはじめて本来の機能を発揮する。車を運転する者がいなければただの箱に過ぎないのである。
 例え脳の構造が解ったとしても人間の精神構造までそれで説明できるわけではない。解るのは、脳の働きに関してだけである。

 人間は、自分の脳を直接見る事はできないのである。脳の動きが、例え見えたとしても、それによって自己の存在まで説明できるわけではない。人間存在の意味まで解明されたわけではない。所詮は、表に現れた結果に過ぎない。生病老死と同じように、医療が発達しても、本質は、何も解決していないのである。生命の神秘も解明されたわけでもなし。病がなくなったわけでもなし、老いがなくなったわけでもなし、不老不死の妙薬が発見されたのでもない。むしろ、謎は深まるばかりである。

 結果は、理解できても原因は解らない。

 ただし、現行の教育制度、子供達のおかれている生活環境、生活習慣を考えると子供達の脳に重大な損傷を与えている可能性がある。有名なのは、ゲーム脳であるが、その他にも、電磁波や食品に含まれている化学物質の影響などが、どのような影響を脳に及ぼしているか解明されていない。

 脳科学の解説書では、脳のどこにどのような損傷があるとこの様な症状を現すとか、脳のこの部位にはこの様な働きがあるといった記述はあるが、どのような教育やどのような環境が、脳にどのような影響をもたらすかについての記述はない。つまり、どのような教育が好ましくなく、どのような教育をすればいいのかについては、明らかにされていない。しかし、脳科学は、脳の発育に教育がどのような影響を及ぼすのかについて解明し、教育に反映してはじめて意義がある。

 解剖学や脳の障害、病理学的問題に対する研究が基だったから致し方ないにしても、現在の脳科学は、結果的な問題が中心に解説されている。教育上知りたいのは、は、脳のどこにどのような損傷があり、それがどのような障害を引き起こすのかではなくて、脳の損傷がどのようにして起きるのか、つまり、原因なのである。
 脳の損傷は、どのようにして引き起こされるのか。原因は、教育なのか。環境なのか。薬物なのか。食事なのか。それとも遺伝的な問題なのか。病気なのか。事故なのか。そこが問題なのである。そして、その背後に現代社会の抱える深刻な病巣が隠されている。

 今日、現行の教育制度の成果として、脳に障害を持つ者と似た行動様式をとる者が増えている。
 幼児虐待や少年犯罪、ネグレクト、ニート、引きこもり、集団自殺など、何らかの形で脳の障害が原因ではないかという事例が増加している。この様な社会現象の原因は何なのか。その解明にこそ、脳科学は、決定的な力を発揮するように思われる。

 サイレントベービーの問題は、育児、幼児教育の根本に関わる問題である。この様なサイレントベービーが生まれるのは、育児環境からである。この様に、教育環境に脳の発育は、重大な影響を受ける。

 それでなくとも、食品や空気の中に含まれる化学物質、大気汚染、温暖化に代表される環境の変化が脳に発育に与える影響、電磁波や映像、光や音楽による強い刺激が脳に与える影響と言ったものが直接、間接に子供達の発育にどんな影響を与えるのかを脳科学の観点から明らかにする必要がある。それも、送り手である、学校や放送局、出版社、関連企業が自らの責任で明らかにしていくことが求められる。

 この様な教育環境は、テレビにせよ、テレビゲーム、ビデオ、漫画、いずれにせよメディアは、逃れられない問題である。これら媒体が脳の成長に与える影響は、深刻なものがある。最も深刻なのは、これらの媒体か直接脳に働きかけることである。

 ただ、脳の組織が解明されたからといって脳科学万能に陥れば、これまで犯してきた過ちの二の舞になる。

 脳科学で多くの事が解明されていると言っても、それは、入力、入り口の部分である。脳科学が明らかにした部分は、認知や記憶部分であり、認知や記憶というのは、思考の入り口、入力部分のことを指して言っているのである。また、システムで言えばハード部分であり、ソフト部分には、まだまだ謎が多い。
 人間の思考というのは、対象を認知し記憶した後、それを再構成し、一つの結論を導き出したと後、行動に結びつけていってはじめて完結する。この認知したものや記憶を再構築するための法則・基準や方程式が、倫理であり、論理である。この部分は、後から、一つの体系として刷り込まれ(インプット)たり、経験によって焼き付けられたりする部分である。それだけに先天的と言うよりも後天的に与えられる要素が強い。だからこそ、教育的な部分というのは、この認知や記憶した以降に多くあるのである。また、本来そうあらねばならない。

 現在の学校教育は、入力、入り口のことしか考えていないように見える。そこの脳科学万能主義が入り込む素地がある。学校では、学校を出る前のことしか考えていない。つまり、学校を卒業した後のことは想定していないし、責任を持とうという意識すらない。卒業生が引き籠もろうが、犯罪をおこそうが、全く関知しないし、反省もしない。つまり、現行教育の埒外なのである。

 しかし、入力のことは、出力サイドから本来考えられるべき事柄なのである。ところが、現行の学校教育では、出力後のことに対する考えが欠落している。そこに学校教育の転倒がある。だからこそ、教育の成果、実績から教育の目的を検証することができないのである。出力サイド、つまり、意志決定や環境・社会に対する適合力という観点から教育の在り方を見直さないかぎり、本当の意味での教育の在り方・目的は解明されない。
 脳科学もこの視点を欠いたら何の意味も見いだせない。結局は、一つの参考資料にしかならないのである。

 いずれにせよ、現代教育が一体どのような人間を育てようと言う明確なビジョン、設計図をもっていないことが問題なのである。英会話が堪能な人間を育てたいというのならば、現行の英語教育は、お門違いである。その為に、脳の健全な発育が、促されていないのである。

 自己善は、記憶の構造に密接に結びついている。記憶の構造は、脳の構造をした下敷きにしている。そして、脳の構造は、人間の在り方に立脚している。これは、人間の在り方を規定する自己善の根底を成しているのである。つまり、健全な自己善を育成するためには、健全な脳の発育が不可欠なのである。健全な脳を発育することが、教育の目的だと言っても過言ではない。

 学校教育のみならず現代社会は、子供達を実験台にして、壮大な実験をしているようなものである。

 脳の成長段階に合わせた教育が必要なのである。その為には、脳の発育と教育環境との因果環境を早急に、解明する必要がある。







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