考えると言う事

 考えると言う事。考えなさいとよく言う。しかし、考えるとはどう言うことなのか。その意味を理解している者は少ない。それでいて、ただ、闇雲に考えると言う事を教える。

 考えてから決めなさいと教える。しかし、現実には、考えたら決められない。正しいのは、決めてから考えなさいだ。つまり、人間の思考は、直感的な認識から始まる。直感や第一感による認識、判断が根底になければ人は、考えることができない。だから、考えたら決められなくなるのである。故に、その直感や第一感を研ぎ澄ます事に、教育の目的はある。ところが、教育の現場では逆を教える。
 スポーツを考えればよくわかる。バッターがボールを打つか、打たないかを、その場一球一球、考えてからバットを振っていたらボールを打つタイミングを失う。ボールを打つ打たないかは、瞬間的な判断である。
 人を好きになるのも、同じである。人を好きになるのは、瞬間的な判断である。理屈で人を好きになるわけではない。嫌いだと思っている相手の事で、その相手の好きな理由を聞くのは無意味である。まず、好きか嫌いかを聞くべきである。人によって嫌いと感じているのと同じところが、好きなところになったりもする。つまり、嫌なところがあるから嫌いなのではなく、嫌いだから、嫌いなのである。嫌いな原因は、嫌いだと認知した後、考えるのである。
 本来、考えるためには、その前提として判断がある。認識や判断がなければ人は思考することができない。つまり、決めてから考えるである。決めるからその後、修正したり、変更したり、否定することができる。ところが、現在の教育では、まず考えさせようとする。何も決めずに考えれば、修正も、変更も、否定もできない。だから、決められなくなる。決められないから考えることができなくなる。それで、思考力、学力が低下したというのは、馬鹿げている。原因を作っているのは、学校であり、教師なのであるから。

 多くの人は、言葉だけで考えていると錯覚している。しかし、言葉は、思考の全体ではない一部である。それも極限られた一部である。全ての結論は、論理的に導き出されるという錯覚である。結論の多くは、直感的、直観的、特に第一感によって導き出されるのである。そして、行動は、感情によって引き起こされる。
 論理は、それらを反省し、体系付け、整理し、記憶する時にこそ、その効果を発揮する場合が多いのである。要するに後で考えるのである。

 つまり、決めてから考えろ。後で考えろ。理屈は後で考えろなのである。
 また、考えない訓練、考えさせない教育が必要なのである。以前は、考えない訓練、考えさせない教育があった。それが、動作や形による教育である。この形を戦後の教育は、真っ向から否定してしまっている。否定してしまっているために、形や動作による教育にも無防備なのである。

 論理は、筋である。線である。つまり、一次元的なものである。思考は、立体的、多次元的なものである。論理は、点と線を結ぶように展開されるが、思考は、一つの構造物を構築するように展開される。

 言葉による論理は、柱のようなものである。柱ができたことで、人間の思考力は、飛躍的に向上した。しかし、思考というのは、言葉による柱だけが全てではない。むしろ、ごく一部に過ぎないのである。
 車の運転中のことを思い浮かべて欲しい。言葉では、前方の信号を右というだけでも、その背後に多くの事柄が含まれている。道路状況。対向車。後方。前方。周辺の地形。目的地までの経路。歩行者。天候。車のスピード。車の癖。車の状態。同乗者の状況。信号。果ては、交通法規。
 これらのことを瞬時に判断している。論理的な人間であるか否かは、車の運転の技能には、さほど、影響はない。つまり、車の運転は、論理的に為されているわけではないのである。

 大体、言葉自体が、構造的なものである。人間は、言葉を一定の法則や規則で、いくつかの対象や言葉と関連づけ組み合わせて認識している。言葉、文節、文脈、文法、更に、状況が加味されてはじめて意味を為す。言葉や論理だけで法や社会を理解しようとすること自体が滑稽なのである。言葉は、実体を中継する道具に過ぎない。その背後にある事実が重要なのである。言葉と現実が結びつけられなければ、再構築できなければ、それは、無意味なのである。だから、文学で重要なのは、情景描写なのである。情景描写によって状況を再構築する。学校の知識では、この再構築は不可能である。

 このことから考えても、言葉だけの教育は弊害である。なぜならば、言葉だけでは、実体を再構築することはできない。そこに書かれている文を丸暗記させ、それを試験する以外に検証のしようがないのである。

 道徳は、論理的なものではない。感情的なものである。情動に直接働きかけ行動を触発する。その証拠に倫理観は、恥という感情に直結している。多くの人は、価値観や道徳は、論理的な体系で、論理的に導き出され、論理的に構成されると錯覚している。しかし、論理そのものが思考の一部、軌跡に過ぎない。道徳は、理性だとして感情との関係を断ち切ったことによって現代社会から道徳観が喪失したのである。これを取り戻すのに、論理や理性を持ち出すのは、逆効果である。

 教育には、言葉に依る教育と動作による教育がある。現代教育は、言葉による教育に偏っているきらいがある。しかし、本来は、動作による教育の方が効果が上がる場合がある。

 言葉で考える。動作で考える。形で考える。考えるにもいろいろある。ところが、多くの人は、言葉で考えることしか思い浮かばない。
 思考の中で、我々が、意識できることは、論理の軌跡に過ぎない。しかし、思考は、複合的、総合的に為されているのである。

 動作に直接働きかける教育は、言葉による思考を一旦停止する必要がある。だから、考えない訓練、考えさせない教育が必要になるのである。

 言葉による教育は、意識の上で為される。思考の形を一旦意識の上に呼び出し一定の流れや関連づけをした上で、無意識下に帰す。
 意識の上に呼び出して、書き込みや書き換えを起きない。それを実際に使う時は、意識の下に帰すのである。
 車の運転を思い浮かべればいい。車の運転は、教習所で習うとは、意識の上でおこなう。しかし、一度習得すると今度は意識したら運転ができなくなる。学習するとき使うところと、日常的に使う所は、違う所なのである。

 教育において重要なのは、言葉の教育と、動作、環境による教育をうまく組み合わせることである。つまり、直接的な教育と間接的な教育をうまく組み合わせることである。言葉に拘泥すると教育の効果は上げられない。

 思考のこのメカニズムを知らないと、我々は、意識しないところで、間違った教育をされてしまう。教育というのは、何も、学校だけがしているわけではない。むしろ生活環境からくる教育の方がずっと恐ろしい。
 我々は、知らず知らずのうちに、正常な社会生活が送れないようにされている怖れがある。無自覚に、人間関係を対立させたり、正常な判断が下せないような価値観を植え込まれている危険性がある。
 これらの危険性から身を守るためには、何らかの兆候を読みとる必要がある。

 相手に何らかの価値観を刷り込むためには、相手の受容度を高める必要がある。自分の考えに素直にし、自分以外の考えを排除するような姿勢を作る必要がある。その点、学校は、最初からその体制が整っている。何せ、親が先生の言うとおりにしなさいと子供を送り出しているのである。もし仮に、学校で間違ったメッセージを刷り込まれたら取り返しがつかない。この点、テレビや漫画も同様である。テレビや漫画は、日常生活の中に忍び込んで、波状反復的に一定のメッセージを繰り返す。最も無防備で安心した世界に反復的に繰り返されれば、それは、直接的な影響を及ぼす。

 テレビや学校で、一定の価値観を植え込む際、相手の警戒心を解くキーワードが、公正中立である。公正中立という基準は、戦後、メディアで多用されている。しかし、公正中立という視点は、実は、神の視点なのである。主観的存在である人間は、本来、公正中立の立場に立てない。公正中立というのは、まやかしである。メディアや教育者が、公正中立をいう時、自分を神の座に押し上げているのである。その上で、自分の立場を曖昧にする。自分が何を正しいとしているかをハッキリさせない。そして、何が悪いかを示唆しながら、答えを導き出させるのである。結果的に、一つの価値観を植え付けてしまう。

 公正中立といって自分が何を正しいのか、又は、自分の立場をハッキリさせなかったら、それは、相手が何らかの価値観を刷り込もうとしていると思えばいい。更に、質が悪いのは、一度、公正中立として刷り込まれた価値観は、次の人間に刷り込む時は、刷り込む人間自体が無自覚、無意識にしているという事である。こうなると概念そのものが一人歩きし出す。

 自分の考えを持てというキーワードを言っておいて、自分の言ったことを、言い換えさせるたり、言葉を置き換えさせると、自分の考えを持てという事は、相手の言ったことを言い換えたり、置き換えたりする事、又は、言葉を換えることと解釈し、それを無意識下に組み込んでしまう。

 言いなりになるなというキーワード価値観を植え込む、それに何でも反対することや反論する行為を結びつければ、その人間は、何に対しても反論するようになる。受け手にするとそれは、意味のない反発、反抗、口答えにしか見えない。

 言葉や否定的なイメージを植え付けるだけでいい。そして、そのイメージと感情を結びつけると価値観は形成される。
 会議を開くと何でもかんでも反対する人に出会うことがある。反対することに意義があり、繁多入り理由にさしたる意味がなかったりする。こういう人が紛れ込むと会議は収束しなくなる。こういう人の多くは、会議では、意見を言いなさい。会議では、反論しなさいと刷り込まれている可能性がある。この様な刷り込みは、逆な刷り込みである。そう言うことに、あなたは、会議では反論しなければならないと思っていませんか。反論すべきであると言われたことがないかと聞くと、大概あるという。これは、トラウマと言うよりも、もっと危険な刷り込みである。

 思考には、順な傾向と逆の傾向がある。順な傾向は、求心的であり、従順な傾向があり、適合力はあるが、隷属的でもある。逆な傾向は、対立的であり、遠心的で、独立の気風があるが非協調的である。問題は、バランスであるが、組織が、同一の傾向のある人間に偏ったとき、平衡を失って暴走したり分解する危険性がある。

 思考は、言葉を含んだ姿勢や動作でする。表現した者は、言葉で意識する。受け手は、姿勢、行動で判断する。そこに認識上のズレが生じる。言葉という部分によって、肝心のメッセージの全体像が失われるのである。それは、受け手、送り手双方に持続的なストレスを感じさせる。

 言わないとやらない。言うとできない。なぜこう言うことが起こるのか、言葉の教育と動作の教育が矛盾している事に原因がある。
 言葉で自分でやりなさいと言いながら、自分一人ではできない状況にする。また、規則や命令でしか行動することを許さないようにしておきながら、言葉では、自主性や、自発性を重んじる価値観を刷り込む。明らかにできないことが解っている(年齢的、肉体的、物理的な理由)のに、解っていることを前提とした指示命令を与え、できないと、罰したり、叱ったり、著しく名誉、自尊心を傷つける様なことをする。
 責任を持たされたはずなのに、自分の判断が無視された。一生懸命にやったのに、誰も誉めてくれない。無視された。

 手順、段取り、時間的に矛盾した教育をすると本質を理解することができなくなる。正常な判断力や決断力の成長を疎外し、歪んだ性格を醸成する危険性がある。
 考えてから決めなさいは間違い。決める前に考えたら、決められない。この事によって決断力がなくなり、優柔不断になる。
 愛を教える前に、性知識を教える。やって良いこと悪い事(正否善悪)をハッキリ教えないで罰する。この事によって、善悪の判断に狂いが生じたり、猜疑心から政治様な判断が下せなくなったり、善悪の判断は下せても行動を抑制できなくなったりする。

 空間的に矛盾した教えは、反抗的、対立的態度で、人間関係を破壊する。また、自分を社会から一歩離れたところに置き、批判的な目で社会を捉えたり、正常な人間関係が構築できなくなったりする可能性がある。ひどい時は、人格の分裂を引き起こしたりする危険性がある。家族を崩壊させ、社会秩序を破壊する方向を生みやすい。つまり、社会と自己の連続性が保てなくなるのである。
 学校で正しい(間違っている)と教わり、家庭で間違っている(正しい)と教わる。やって良いと親に言われたのに、学校でやったら、叱られた。学校でやれとそそのかされて、家庭でやったら、親に叱られた。テレビで盛んに使われている言葉を使ったら、親に駄目と言われた。

 共通項と相違点からくる矛盾は、判断にあたって物の軽重の基準を狂わせる。位置づけや再構築ができなくなる。部分適合、全体不適合の誤謬を引き起こす。分別ができなくする。価値の転倒を引き起こす。俗に言うパラドックスである。
 差を強調することで対立的に捉えさせる。共通点を強調する事で同一に見せかける。
 共通項を強調しながら、例外的なことで結論を出される。多数決といいながら、少数意見が採用された。独創的なことをしろと言いながら、変わっていると笑われた。皆のやることに従え、合わせろといいながら、平凡だといわれた。
 あえて矛盾したことを同時に教えておいて、偏った結論を出す。間違っているけれど、皆がやるから仕方がないとか、従えという。

 部分でもって全体を規定する。部分でもって全体を否定する。
 目と鼻と口があるから、男と女は、全てが同じだと結論付けるのも、男には、子宮がないから男と女は、違うと結論付けるのもおかしい。相違点もあれば、共通点もある。それらを分別してはじめて、意味があるのである。
 差があるから悪いと言われれば、識別は、不可能になる。差の存在が悪いのではなく在り方が悪いのである。平等という概念を刷り込むことで識別を不可能にして、自分の価値観を刷り込むのである。
 洗脳の一つのやり方として、相手の価値観を破壊し、解体した上、頭の中を白紙にしておいて強い刺激で新しい価値観を刷り込む方法がある。今の下手のは、その洗脳の前段である。

 象徴的な行為(宗教的儀礼等)を繰り返す事によって価値観を刷り込む。この様にして刷り込まれた規範は、表面的な判断基準とは違う行動規範を形成させる。音や光、色、形、匂い、感触、味、キーワードによる刺激と行為に結びつけることによって、直接的にそれらの要素に直接反応する行動規範を植え込む。この様な行動規範は、論理的な思考経路とは無縁なところで形成される。一連の動作や論理を繰り返すことによって思考の形を植え込む。単純な動作や思考を繰り返す事で、その動作や思考方法が肝心なのところで働いてい行動や結論を自動的に導き出す。それが、人間関係や社会常識に沿ったものであるならば問題にならないが、逆らうものだと絶え間なく周囲の人間や社会と摩擦を引き起こし、対立していく。最後には、社会に適合できなくなる。

 言葉と他のイメージを結び合わせて、一つの価値観を形成させる。例えば、言葉と正のイメージ(澄んだ、きれい、清潔等)を持たせる光や音、色、形、匂い、感触、味などを結びつけ、更に、正(嬉しい、楽しい、心地よい等)の感情を呼び起こさせるようにする。反対に、言葉を負のイメージ(汚い、穢れ、濁り等)に負の感情(恥ずかしい、恐ろしい、腹が立つ等)を結びつけて、負の価値観を植え付ける。
 更に、刺激の強弱、連続・断続、速度、長さ、間隔といったものに結びつけて、刷り込んでいく。特に、正のイメージを快楽(性欲、食欲、名誉欲)、負のイメージを苦痛に結びつけると絶大な効果を発揮する。
 戦後こうして植え付けられた言葉に、正の言葉としては、解放、自由、平等、民主主義、革新、革命、人道主義、平和、反体制、反逆、反抗と言ったものがある。負の言葉としては、軍国主義、国家、国旗、家族、戦争、形式、かたぐるしい、正式、歴史、神、道徳、儒教、礼儀作法、規律、規則、組織、秩序、権威、権力などがある。圧倒的に負のイメージを植え付けられた言葉が多い。

 忌み事や生け贄を決めて、繰り返し、それを卑しめる。これは、言葉だけでなく行為も含める。俗に言ういじめは、特定の人間がその対象になった時、成立する。集団的思考の一種と考えられる。

 この様な洗脳的働きに、テレビやテレビゲームは、絶大な威力を発揮する。

 テレビやビデオ、テレビゲームの危険性として電磁波が脳に直接与える影響も指摘されているが、それ以上に、価値基準を直接、脳に刷り込んでしまうことである。それも、与える側も受け手も無自覚にされるという事である。テレビやビデオ、テレビゲームが与える影響の方が、学校教育よりずっと大きい。また、学校で植え付けられる習慣の方が教科書から教え込まれる事項よりずっと影響がある。つまり、教育問題で問題にされている事項は、的はずれなのである。

 たとえば、ある概念、それも断片的な概念を、テレビやテレビゲームによって波状反復的、しかも一方的に刷り込んでいけば、その概念は、当人も無自覚な形で刷り込まれてしまう。それは、意識してテレビを見せる必要はない。意識せずに見ている、つまり、つけっぱなしのテレビからも、というより、つけっぱなしのテレビの方が影響力が強い。例えば、テレビコマーシャルである。そこに何らかのメッセージ、送り手も意識していないようなメッセージが組み込まれていると、受取手側の脳は、それを何らかの形で取り込んで思考経路を構築する。しかも、脳の一番奥深いところに、何のチェック機構も働かない形でである。それが何を意味するのか、それが感情や行動に直接作用する。何かのキッカケや刺激によってその感情や行動が誘発されると意識によってコントロールすることができなくなる。それは、恐ろしいことである。

 今の世の中には、悪い手本は沢山ある。また、人は、他人を批判し、してはならない事、やってはならないことばかり教える。しかし、良い手本、何をすべきかについては、誰も教えてくれない。メディアは、ネガティブ、否定的な事を言っていればいいと思っている。ポジティブ、肯定的なことは言わない。
 なぜか、戦争中、体制の側に立った者は、全て粛正された。名誉まで否定された。その反面、反体制派は、高い評価を受けたのである。以来、言論界は、反体制、批判していれば、評価されたのである。しかも、いざとなったら責任を問われない。かっこよくて、責任を問われなければ、誰もが、そっちに行くに決まっている。かくて、反体制派ばかりになってしまったのである。これも、一種の洗脳である。当人達は正義であり、勇気があるつもりである。しかし、現実は、無責任なだけである。
 だから、悪い事ばかり覚える。その反面、何を信じ、目標にすべきかが解らない。昔,憧れの対象があった。今は、憧れや夢がなくなってしまったのである。

 基準となる体系が何もないと、自分の考えをまとめることができない。故に、最初に何らかの価値基準を刷り込んでおく必要がある。それが、幼児教育で最も重要なことである。全ての始まりは、幼児教育にある。
 最初の教育は、刷り込みになる。それは、ある種の洗脳と同じ手法である。ただ、この洗脳というキーワードは、負のイメージとつながっている。先ず、そこを正しく認識しておく必要がある。
 一定の価値観を刷り込んだり、植え込む時は、受取手側と与える側、双方が理解・了解できる形(少なくともオープンな形)で、お互いが矛盾していない体系でなければならない。故に、それが許されるのは、保護者だけである。余程のことがないかぎり、保護者以外の人間がおこなっては成らない。
 基本的には、価値観は、十善にしかずである。


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