民主主義における学校とは

 教育は、民主主義の要である。
 日本においても教育は、納税と教育は、戦前から三大義務の一つである。もう一つの義務は、戦前は、国防で、戦後は、勤労に変わっている。変わっているが、本来の義務は、国防である。国を守ることの意義が変わっただけである。

 なぜならば、民主主義は、制度や仕組み、手続きの思想だからである。そして、国民国家である民主主義国は、国民の権利と義務によって成り立っているからである。これらの権利と義務を正しく行使するためには、国民は、多くのことを学ぶ必要があるからである。故に、教育は、義務であり民主主義の要なのである。

 民主主義を支えている権利は、参政権である。この参政権が、必要要件であるが為に、民主主義社会は、義務教育を前提に成り立っている。
 参政権というのは、誰にでも与えられるという権能ではない。国民として認められた者だけに付与される権利である。そして、参政権を得るためには、必要な要件がいくつかある。民主主義国において一番重要なのは、国家への忠誠である。なぜならば、民主主義国は、国民国家であり、主権が国民にあるからである。この国民から、参政権は、付与される。国家への忠誠心がなければ、国民としての義務と権利を守る根拠、動機、意志を欠くからである。この様な者に権利や義務を与えれば、最初から国民の合意を崩すことになる。故に、参政権を付与するにあたって国家への忠誠は、不可欠な要件なのである。
 国家への忠誠心以外で参政権が付与される必要条件は、一つは、自立した自己の確立、もう一つは、民主主義の権利と義務を行使するために、必要な技術と知識を身につける事である。むろん、民主主義の原則に従うことも必要である。その為にも、民主主義の原則と理念を正しく理解する必要がある。
 国家への超精神を確認した上で、自己が確立したと認められ、民主主義社会を生きていく為に、必要な理念と知識、技術を習得した事が認められると参政権は与えられる。

 国家への忠誠心のない者に、国民国家である民主主義国は、参政権を与えることはできない。忠誠心を明らかにしない者は、最初から、国家の法や制度を規律を守る意思のないことを表明しているような者だからである。そのような者に、参政権を与えれば、法治国家である民主主義国は、国家の規律を守ることはできない。当然、三大義務に関わる者は、更に、強い国家への忠誠心を求められる。法に携わる者、国防に携わる者、教育に携わる者は、愛国心と、国家への忠誠が求められるのは、当然のことである。
 我が国は、軍国主義国でも、独裁主義国でも、全体主義国でも、専制主義国、封建主義国、君主主義国、国家主義国でもなく民主主義国なのである。民主主義国は、国民の合意によって成り立っている。民主主義国において国家への忠誠を誓わない事は、その国民の合意を否定する事になるのである。故に、参政権を与えるわけにはいかない。

 権利と義務は、国民的合意の下に付与されなければならない。本来ならば、参政権というものは、ある意味で免許のようなものでなければならない。つまり、必要な要件を満たした者に与えられるべき性格のものである。この点に関し、基本的人権とは別の権利である。
 基本的人権は、生まれながらに付与される権利であるが、参政権は、一定の要件を満たした者に対し国民的合意に基づいて付与される権利である。

 この参政権が、民主主義の要であり、それが付与されるための必要要件の一つに教育があるから、教育は義務であり、民主主義の要なのである。

 つまり、参政権というのは、子供の成長を一つの前提としている。この点から鑑みても義務教育は、成長に応じた教育が必要なのである。一足飛びに、必要要件が認められているのではない。

 先に述べたように、参政権は、存在から派生する権利ではない。一定の要件を満たした者に対し、国民の合意の下に付与される権利である。この権利は、憲法の理念から派生するものであり、国民の定義によって規定されている。存在ではなく、国民の合意に基づいて国民に等しく付与された権利である。つまり、参政権を付与されていない者は、正式には、国民として認められていないのであり、国民に準ずる扱いを受けているに過ぎない。正式に国民として認められるためには、一定の義務教育を経るか、一定の手続きによって義務教育を減免された者が一定の年齢に達した時、参政権の付与をもって実質的に承認されるのである。この事から、義務教育の意義と目的が明らかになる。

 成人式の意義は、参政権の付与にある。成人式というのは、ただ、単なる儀式ではないのである。参政権を付与するための式典なのである。一定の成長を遂げた証でもある。
 成人式の存在意義が薄れてきたのは、民主主義の精神が失われてきた証拠である。

 参政権を付与する第一の要件は、自己の確立である。参政権を与えるためには、自己が確立していなければならない。民主主義国においては、市民、社会人としての権利と義務を行使する事が要求されるからである。
 参政権を付与する条件の一つが成人である事がある。成人というのは、ただ二十歳過ぎという意味ではない。一人前の社会人としての基本的素養を習得した者という意味である。むろん、その中には、民主主義の基本的理念を習得していることも含まれる。ただ、客観的な基準がないために、日本国籍を有する二十歳以上の者で、義務教育課程を修了した者という事で、参政権を付与しているのである。

 民主主義構成する各要素は、義務と権利から派生する力が働いている。義務と権利は、斥力と引力であり、作用反作用の関係にある。この要素間に働く、斥力と引力の作用反作用によって各々の要素は位置付けられる。個々の要素は、位置付けられることによって、構造化され、結びつきや関係が生じる。自己と他者との結びつきや関係付けによる連続性によって民主主義は成り立っている。個々の要素の結びつきや関係付けが、断ち切られると制度としての連続性が失われ、民主主義は崩壊するのである。故に、民主主義制度は、義務と権利の力の均衡の上に成り立っており、義務と権利の力の均衡が重要になるのである。

 権利と義務は、斥力と引力の関係にある。つまり、作用反作用の関係にある。義務が生じれば、必ず、反対方向に権利が生じる。つまり、教育を受ける義務は、教育を受ける権利が生じる。

 教育を受ける権利は、基本的な選択権を意味する。選択権のない教育は、民主主義ではない。民主主義というのは、双方向の仕組みがなければならないからである。
 そして、選択権とは、学校を選ぶ権利、思想を選ぶ権利、教師を選ぶ権利をさして言う。ただし、国家への忠誠を前提とする義務教育においては、反体制的教育、反社会的教育、反国家的な教育、反倫理的、反民主主義的な教育は許されない。なにが、反体制的であり、反社会的であり、反倫理的、反国家的、反民主主義的であるかを決めるのは、国家並びに地域コミニィティである。

 教育理念に対する理念は、教育を受ける当事者、そして、保護責任者、そして、地域住民の協議によって定められなければならない。なぜならば、教育の影響を最も長く受け続けるのが、その三者であるからである。学校や教師が受ける影響は短期間に限られている。故に、教育に対する主権は、一に当事者、二に保護責任者、三にその地域に住む者である。特に、保護者の意見は、最大限に尊重されるべきである。

 保護者、学校、教師は、子供の意見を採り入れながら子供に、何が、必要なのかを、最初に話あって決め。その後、定期的に話し合って具体的な、カリキュラムや教科書を決めていく必要がある。

 教育は、民主主義の理念を普及し、周知させる働きが求められる。故に、学校は、民主的に運営されなければならない。

 現行の教育には、選択の自由がない。選択の自由こそ自由の本質、民主主義の本質なのである。

 つまり、自分の理念、教育方針にあった学校を選択するのは、保護者の基本的な権利である。それは、保護者が、義務教育期間中の子供に対する全責任を負っているからである。同時に、学校は、教育内容を地域社会に開示する責任がある。

 学校や先生を選択するのは、生徒や保護者の基本的権利である。保護者が学校を選べなければ学校は、思想教育をする事は許されない。先生を選べないのならば、思想教育は、許されない。反社会的な教育は、尚更の事である。

 我が国は、民主主義国である。この事を、多くの教育関係者は理解していない。

 民主主義の原則は、多数決である。数の論理とか、暴力といって多数決を否定する事は、民主主義を否定する事である。少数意見を尊重すると言っても、少数意見に縛られたり、支配されるのは、全体主義であり、独裁主義である。

 民主主義の原則は、衆議一決である。教育者の独善や個人的な思想を許すものではない。保護者と学校と地域コミニティとの話し合いが根底にあり、尚かつ、学校の選択権を保障されていなければならない。

 国民国家、民主主義国家にとって、学校は、中心的存在である。故に、教育を義務と為すのである。逆に言うと、民主主義は、学ばなければならないことが多くある。
 民主主義は、民主主義の原理、地域社会の取り決めや仕組み、政治や社会への参加意識と言ったものを成人が、全て習得していることを前提として成り立っている。故に、学校は、その地に住んでいる住民を中心としたコミニティの合意に基づいて運営されるべき性格のものなのである。

 義務教育の目的は、民主主義を理解させることである。
 民主主義の根本は、自由と平等と博愛である。自由と平等は、制度や仕組みの中に表現される。しかし、博愛は、言葉があるが、実体がなかなか現れにくい。しかし、博愛こそが、自由と平等の大前提なのである。

 支配階級、被支配階級といった形で二分化、できるような単純な世界ではない。そのような図式でもって自由や平等を規定するのは、既に偏向である。
 民主主義は、いろいろな考え方や信条を持っている人々を広く受け入れていこうという事を根本としている。それは、博愛精神である。お互いを許し、相違点には、目をつぶって、一致したところをベース、基本にして社会を作り上げていこうとする精神である。
 相違点をことさら強調し、やれ差別の、支配のと対立を増長させてしまえば、民主主義は根底から成り立たないのである。民主主義は、最初から危うい均衡の上に成り立っている。民主主義は、最低限の一致、合意の上に成り立っているのである。その上で、お互いを許し合うのである。対立を深めていけば、分裂しかないのである。
 ある種の反体制、革命勢力は、この博愛精神を楯に取り、逆手にして、国家の仕組み、関係をバラバラに解体しようとする。彼等が、教育や法律の世界に入り込むと民主主義は、重い病にかかる。彼等は、最初から民主主義、つまり、国民的合意を尊重する意志がないのである。そして、少数者、弱者に擬態する。
 人と人との仲を裂き、対立させることを目的とした教育は、反民主的、反社会的、反体制的教育である。教育は、教師の私的な、個人的な思想で為されるべきではない。教育者に求められているのは、偏向的な思想ではなく。愛である。子供への愛。国家への愛である。

 現行の教育は、重い病にかかっている。それを直す事のできるのは、親の子供への愛である。社会の子供への愛である。国家の子供に対する愛である。重い病の根源は、学校から愛が失われつつあることである。
 教師の子供への愛は、試験勉強の中にかき消されてしまいつつある。受験制度は、非人間的な制度である。その中で、天然、自然の情は、否定され。親子の情、友情は、切り裂かれ。対立と憎しみの種が教育の場で蒔かれている。

 現行の教育に欠けているのは、愛に対する教育である。それは、愛を男と女の問題に矮小化していることに起因している。更に、性欲と愛とを結びつけて卑猥で下品なものに変質させてしまっている。しかも、教育の現場でそれが為されようとしている。メディアは、それを増長させている。また、愛国心を偏狭な思想と結びつけて、排斥しようとしている。今や、愛は、危機的な状況に瀕しているのである。愛は、愛の名の下に衰弱し、死に絶えようとしている。
 民主主義における博愛は、男と女の間に限定されたものではない。愛とは、慈悲の心、寛やかで、温かくて、悠々としていて、和やかで、穏やかなものである。家族の温もりの中にある。心地よく、安心し、心なごむところにある。

 愛を男と女の間に限定し、それに性欲をつなぎ合わせて説明しようとする傾向がある。その一方で、愛国心を軍国主義に結びつけて否定する。愛を性欲や主義主張と結びつけようとするのは、夫婦愛や家族愛を蔑み、愛国心を否定する立場の人間である。しかし、愛国心は、思想とは無縁の情である。国家への思いである。愛国心故に、専制国家や独裁者に抵抗し、革命を起こした者達が、本来、民主主義国を築いたのである。故に、民主主義の宗主国であるアメリカ人やフランス人は、愛国心が強い。当然の帰結である。それは、自分達が選び、自分達で築き上げた国家だからである。

 愛国心を否定する日本人の知識人の中には、日本人に対する差別があるように思える。日本人の日本人に対する差別がうかがえるのは、哀しいことである。

 まず、自愛なのである。そして家族愛、夫婦愛、兄弟愛、姉妹愛、友愛。次に、愛校心、愛社精神、郷土愛、愛国心。最後に、人類愛、博愛である。この愛を支えているのが、修身、斉家、治国、平天下である。
 根本は、自己愛である。故に、修身なのである。戦前の教育の根幹に修身があった理由はそこにある。不幸なことに、日本は、未曾有の戦争の惨禍によって教育の基本精神を葬り去った。それ以来、未だに、教育の核となる支柱を見いだしていない。本当に修身が悪かったのか。それとも、修身は、軍国主義者達に利用されただけなのではないか。その反省もしないままに。
 民主主義は、その国の国民の手に成るものである。必然的に、教育の基本は、国民精神なのである。この国民精神を取り戻すことこそ、真の民主主義を実現する事なのである。そして、それこそが、民主主義教育なのである。

 民主主義国における必須の学校とは、自由と平等と博愛の精神を培い。民主主義国において義務と権利を行使するに必要な知識と技術を習得する場である。それ以上の学問は、基礎教育以外の学校、または、追加的授業において履修すべき事であり、義務ではない。そして、それを選択するか、しないかは、個人の自由なのである。







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