会議の仕方

 民主主義の基本は、話し合いだよ。だいたい、人間は、話せば解るさ、何事も。そう言うふうに、多くの戦後の日本人は教わってきた。まあ、だいたい、そう教えていた当人が、他人の意見に耳を貸さなかったり、自分の意見を押し付けたものだが。あげく、ゲバ棒を振るって暴力で相手の意見を封じ込めようとした。大多数の人間は、現実の世界は、話せば解るという世界でもない事を知っている。大体民主主義からして、話し合っても、話し合うだけでは、決着が付かないことを前提としている。だから、会議のルールを最初に決め、重要視するのである。
 民主主義の根本は、話し合いだというのは、解る。しかし、話せば解る何事もという事ではない。話し合ったところで解りあえない。だから、予め話し合いのルールを決めておくというのが、民主主義なのである。話し合いを尽くした上で、ルールにに従って物事を決めるというのが民主主義の原理である。ただ、話し合うばかりでは、何も決まらない。だから、日本人流の考え方ではいつまでたっても話し合いは付かない。だからこそ決め方が重要になるのである。

 戦後の教育では、逆らうことばかりを教えてきた。意見と言えば、反対意見、賛成意見は、言う必要がないかのごとく教えてきた。先生や体制に逆らう奴を英雄視し、学校や先生、体制に従う人間を蔑視してきた。自分の意見というのは、他人と違う意見であり、皆と違う行動、違う意見を言うことが正しくて、皆と同じ事を言うとちゃんと自分の意見を持てと叱られた。それで、話せば解るとはないものだ。話し合っても対立するように仕向けておいて、話し合えてと言っても無理がある。横暴だ。だから、我々の世代は、知らず知らず、無意識のうちに逆らうことになる。

 話し合いというのは、民主主義の基本的技術の一つである。また、演説やスピーチも基本的な技術である。ところが日本人は、これらの技術は、教えられなければ身に付かないものだとは、思っていないようである。つまり、先天的に身に付いたもの、もしくは、歩いたり、話したりするように、放っておけば、自然に、身につけるものだと思いこんでいる節がある。だから、日本人は、いつまでたっても、話し合い、会議の技術が身に付かない。

 話し合いには、ルールがある。話し合いには、技術が必要である。難しいルールでも、技術でもない。小さな子供でも簡単に身につける事のできるルールや技術である。ただし、ちゃんと教わればの話である。話し合いというのは、野球やサッカーみたいなものである。走ったり、飛んだりするのとは違う。ルールがあるのである。ルールが解らなければ、収拾がつかなくなり、ルールを無視したら、うまくいかない。
 ただ、ルールがなければ、絶対に話し合いは、できないと言うものではない。ただ、話し合いの結果に対し、誰も、保証できないだけである。保証できないという事は、オーソライズできないという事である。

 日本人、特に、戦後の日本人は、法や法則は、普遍的なものであり、自明、所与のものだと決めつけている傾向がある。しかし、法は話し合いで決めるものであり、科学の法則は、仮説に過ぎない。ゲームが始まってから、ルールを決めようとしても決着は付かない。決着がつくとしたら、それは、武力か、政治力か、経済力によってである。だから、ルールに対する取り決めは、ゲーム、会議のルールならば会議が始まる前に取り決めておかなければならない。ところが日本人は、この原則が解っていない。会議の前に決める事と言ったら、ルールでなくて会議する内容だと勘違いしている。そのくせ、会議のルールは、予め決められていると錯覚している。だから、日本人は、国際会議で力を発揮することができない。ルールを決める席では沈黙して、会議の席では、予め決めた事を繰り返すだけで終わってしまう。会議というのは、ルールに従って話し合いをし、最後に、ルールに基づいて決着する場なのである。そして、話し合う前に、話し合いのルール、結論の出し方、決め方を決め、確認をしておく必要があるのである。

 これは、スポーツの在り方も同様である。スポーツのルールを決める時は、何も言わないで、後で、不公平だというのは、民主主義を理解していない証拠である。

 話し合いに必要な技術には、第一に、話す技術、第二に、聞く技術、第三に表現の技術、第四に読みとる技術、第五に記録する技術、第五に選択、判別する技術、第六に、決定、決断する技術、第七に、関連づける、関係付ける技術、第八にまとめる技術、第九に、コミュニケーション、会話の技術、第十にディベート、討論の技術、第十一に、資料を作成する技術、第十二に、資料を読みとる技術などが必要である。

 会議の種類には、第一に、意志決定のための会議、第二に、情報伝達の為の会議、第三に、問題解決のための会議、第四に、調整のための会議、第五に、審議・検討するための会議がある。

 意志決定の会議には、第一に議会型の会議がある。第二に、裁判型の会議ある。第三に、統制型の会議がある。
 情報伝達の会議には、第一に、報告型の会議、第二に、上申型の会議、第三に、連絡、相談型の会議、第四に、通知型の会議、第五に、説明型の会議、第六に情報交換のかいぎ、第七に、講義、教室型の会議の会議がある。
 問題解決の会議には、第一に問題の摘出、抽出、提起のための会議、第二に、分類、分析のための会議、第三に、対策の立案、企画の立案のための会議がある。
 調整のための会議には、第一に準備のための打ち合わせ、第二に、事務連絡のための会議、第三に照合、照会のための会議、第四に仕分けのための会議、第四に、後処理、後片づけのための会議、第五に確認の為の会議などがある。
 審議・検討の会議には、第一に、選別、選択のための会議、第二に、優先順位、順序づけ、ウェイト付けのための会議、第三に、正否、善悪を判定するための会議、第四に、諮問、意見するための会議、第五に、監査、審査するための会議などがある。

 この様に会議には、いろいろな働きがあり、それに、応じて形式も違ってくる。

 また、会議を開催し、運営するためには、いろいろな手続きがありそれもマスターしなければならない。
 例えば、招集手続き、開会手続き、閉会手続き、事後処理の手続きなどである。

 また、会議は、宣言に始まり、宣言に終わる。この様なルールも覚えなければならない。その他に覚えなければならない、ルールには、発言の仕方、議事進行の仕方、評決・裁決の取り方、成立要件の確認の仕方、開会・閉会の仕方などがある。

 また、会議には、必要な役割、分担がある。議長の役割、書記の役割、事務方の役割、発言者の役割、参会者の役割などがある。また、必要に応じて、オブザーバーや専門家の出席も必要である。

 民主主義というのは、話し合いの思想でもある。話し合いの思想というのは、会議の思想でもある。当然、議会というのは、会議である。しかし、裁判もまた会議だし、内閣も行政も会議によって成り立っている。学校の教室も会議の一種であり、いろいろな委員会も会議である。株主総会も会議であり、PTAも、寄り合いも、青年団や商工会も、会議である。つまり、近代社会、中でも、民主主義社会では、話し合いの技術を身につけていないと自分を発揮することができないのである。

 いろいろな会議を組み合わせる事によって民主主義は、成り立っているのである。民主主義を有効に機能させるためには、会議の技術をマスターする必要があるのである。

 日本人は、この会議の技術、話し合いの技術を軽視している。しかし、話し合いの技術は、民主主義社会では不可欠な技術である。故に、義務教育で教える必要があるのである。







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