成長を促す教育


 教育に対して幻想を持ってはいけない。教育でできることは、微々たるものだ。その人の持つ可能性の1%ぐらいしか影響を及ぼすことができない。後の99%は、その人自身が持っている能力・素材である。しかし、その1%の在り方・影響力で、その人の持つ能力や可能性を100%引き出せるかどうかが決まるのである。そこに教育の難しさがある。また、偉大さがあるのである。
 そして、その人自身が持つ能力や可能性は、成長の過程で現れてくる。だからこそ、教育の本質は、成長に対する観察なのである。押し付けや型に填めるような教育は、1%の影響力でその人自身の能力や可能性を削ぐ結果を招く。そこに教育の怖さがある。

 成長と教育を考える時、成長の意義を明らかにする必要がある。成長とは、外部環境への適合の過程である。だからこそ、成長は、外部との関わりに深い関係がある。外部との適合や関係には、個体差がある。この個体差を前提としないと成長を促す教育はできない。

 確かに、成長には、臨界期や成長のピークがある。この臨界期や成長のピークが早期教育の根拠としてあげられる場合が多い。その好例が、言語能力の習得である。しかし、成長を促す要素は、臨界点や成長のピークだけで割り出せるほど単純ではない。成長というのは、複合的、かつ、構造的である。だからこそ、教育者は、一本調子の決めつけだけは避けなければならないのである。教育には、相手があり、その相手は、規格品のように没個性的なものではない。それぞれが独自の個性を有している。それが、教育の大前提であり、だからこそ、成長過程と、成長の意義を見極めることが重要なのである。その子は、どちらの方向に伸びようとしているのか、それが重要な鍵である。

 成長は、一律ではない。広く知られているのは、リンパ系、神経細胞、体重、性腺の成長曲線には、独自性があることである。(「ヒトの成長と発達」山口規容子・早川浩訳 メディカル・サイエンス・インターナショナル)しかも、それぞれの要素自体にも個体差がある。リンパ系の成長が早いのに、体重の成長が遅いという具合にである。成長というのは、この様に、複合的、構造的なものである。故に、教育に関わる要素の相互作用を見極めながら、慎重にカリキュラムを組み立てていく必要がある。
 だから、教育は、一人できるものではない。いろいろな立場の人間の意見を総合しながら進めていくべき者である。
 そして、子供を見る。生徒をよく観察する事が基本であり、独断や偏見で子供を決めつけたり、判断することを、極力、避けなければならない。だからこそ、教育は、構造的、組織的に為されなければならないのである。

 短期間に習得する者と長期間要する者との個性差がある。しかし、どちらが優れているかは、軽々に判断できない。大器晩成という言葉もある。早く成長したから大成するとは限らない。むしろ、成長の速度は、その人間の成功や最終的に到達するところ、体得するものとは、関係ないようにも思える。

 外部環境への適合に限って考えても、早い遅いは、重大なことではない。早いか遅いかよりも到達点の方が重要なのである。

 成長に適合するための教育に必要な努力は、一つは、国民一人一人の要求に応えようとする努力、もう一つは、現実からの乖離を防ぐ努力の二つである。そして、更に、成長や個性に合わせようとする努力である。

日本の教育は、規格品を作るような教育である。つまり、は大量生産型の教育である。作業の標準化と品質管理ばかりが重要視されている。
 しかし、いくら品質管理をしても、製品そのものが欠陥商品では意味がない。もし、教育の根本が間違っていたら、いくら、教育を均質しても意味がない。欠陥を放置して品質管理をしているような代物である。
 更に言えば、教育というのは、個体性が大きく大量生産型の手段にはそぐわない。根本が間違っている上に、手段までおかしかったら、結果は推して知るべしである。それに、人間は、無機質な工業製品のようなものではない。生き物である。だから、成長過程や環境が重要なのである。

 現在の教育の目的は、決められた期間に決められた能力を習得することに目的をおいているように見える。つまり、一人一人の成長の過程や個性を無視し、一つの鋳型の中に流し込むような教育である。一年一年、教える内容を均質にし、尚かつ、不可逆的な教え方をする。成績が良かろうが、悪かろうが、一定の課程を終了するとある程度の技能知識を習得したと見なし、教育課程を先に進める。途中でないようが解らなくなった者は、取り残され、おちこぼれていく。つまり、子供達が理解しようが、しまいがそんなことはお構いなしに、ただ、与えられた教科をこなすことのみに主眼が置かれている。それが教育といえるであろうか。子供の成長や子供を育てるという視点が欠けている。それを教育とは言わない。

 教育方針や、育児法、躾(しつけ)などは、その国や地域の伝統、風俗、文化、宗教を色濃く反映する。それは、子供達が育っている環境であり、生きていかなければならない社会だからである。万国共通の環境とか、社会というのは、この世には、存在しないのである。平均化され、標準化された空間というのは、架空の世界である。だからこそ、地域社会を教育現場は、反映していかなければならないのである。

 アメリカでは、子供が十二歳未満の年齢では、子供だけ残して外出することが法律禁じられている。同様に、子供が十八歳不満では、子供を残して外泊することが禁じられている。アメリカにおいては、子供達の置かれている環境そのものが教育なのである。

 教育を見れば、その国の目指す方向が解るものである。と言うより、本来、教育を見ればその国の目指す方向が解るはずである。ところが戦後の日本は、例外にしなければならない。我が国の教育を見ても目指すべき方向が解らないのである。教育界が反体制、反国家主義に汚染されているからである。現国家、現体制を否定する者が教育界を支配したら、それは、国家の目指すべき方向など明らかにしようがない。ただ、戦後の日本は例外だと言う事である。ほとんどの国が、国家の未来を下敷きにして教育の在り方を決めている。それが教育というものである。
 また、教育は、国家の主権に関わる問題である。外国の干渉を許すべき問題ではない。外国の干渉を招くのは、国家の独立を損なうことである。と言うより、主体的な教育ができないようでは、主権国家、独立国とは言えない。故に、その国の教育の在り方は、国家の主権、思想、考え方を濃厚に現す。

 国民国家である民主主義国においては、国民の思想を最も反映する。国民の思想が教育に反映されていなければ民主主義国とは言えない。その意味で、アメリカの教育制度は、民主教育を考える上で重要である。
 アメリカの教育の全てが良いというわけではない。ただ、アメリカの教育は、民主主義の在り方に一つの示唆を与えてくれる。その意味で、民主主義国の教育を考えていく上で参考になることは間違いない。

 アメリカの教育にも欠点はある。しかし、アメリカの教育制度には、いろいろな選択肢があることだけは事実である。
 それに対し、我が国の教育制度には、何よりも、選択肢がないのが一番の問題なのである。
 民主主義教育は、時代の変化、環境、特に、国民の必要性や要求に適合する必要がある。ただし、適合であって進化ではない。大切なのは、主権者の必要性や要求なのである。しかし、我が国の教育は、頑(かたく)なまでに国民の要求を受け容れ、時代の変化に適合する事を拒否している。そこが最大の問題なのである。
 日本の教育は、本当に国民主体の教育になっているのかという疑問である。

 教育者の人権だけが重要なのではない。教育において最も尊重されるべきは、子供達の人権であり、保護者の人権である。ところが、現行の教育では、教育者の人権ばかりが尊重されるきらいがあり、肝心の子供達の人権や親・保護者の人権が蔑(ないがし)ろにされている。

 ホームスクールとは、学校ではなく、親が自分で子供を教育する制度である。これは、親の教育の権利を保障するものでもある。

 チャータースクールとは、教師や保護者が自分達の教育方針を、地元の教育委員会に申請し、それを教育委員会が承認すると期限付きで学校の設立が許可される制度である。(「アメリカ最強のエリート教育」釣島平三郎著 講談社+α新書)

 多くの会社が従業員の子供に夏休み中、サマーワークという一種のアルバイトの仕事を提供して、社会勉強をさせている。子供の親が働いている職場で働けるようなシステムである。これは、教育本来の目的である社会、集団生活の技術の習得に合致している。(「アメリカ最強のエリート教育」釣島平三郎著 講談社+α新書)
 ボランティアやアルバイトも成績に反映している。この点も教育の現場と社会との乖離を防ぐ手段としては有効である。

 アドバンスド・プレースメント制度は、成績優等ならば、高校時代に、大学の単位を取得することも可能とする制度である。むろん、飛び級もある。
 敗者復活制度や自分で選んだコースでも、自分に向いていない、適していないというのが解れば、転向できるようにしている事である。
 その他にもオナーズ制度のような制度もある。
 子供達の可能性と主体性を生かすための努力の現れである。

 地域コミュニティの役割も重要である。と言うよりも、地域コミュニティが有効に機能しているかである。
 教育委員や地方議員は、名誉職のようなものだと錯覚している。彼等は、お飾りであり、役人の決めた事に従って行動すれば間違いないと思い込んでいる。会合では、何も喋らない。また、喋らない者が利口であるというような風潮がある。これでは、地域コミュニティは、有効に機能しない。
 教育や内政は、地域コミュニティで、外交や軍事、経済は、国政でと言うのが本来の在り方である。つまり、地方コミュニティには、地方コミュニティの働き役割があり、それは、決して国政に引けを取らないものであるべきなのである。
 地域コミュニティを代表する者は、発言しなければならない。そして、地域行政は、その発言を本にして運営されなければならない。行政官が、地域の代表者の意見を聞かない、無視して行政を執り行うとしたら、それは、既に民主主義ではなくなっている。

 なぜ、アメリカの例を引き合いに出したのか。それは、我が国の人間は、現状を絶対視し、変革や改革を諦めてしまう性向を持っているからである。アメリカの教育が全てだとは思わない。また、アメリカの教育も多くの問題を抱えている。しかし、少なくともアメリカは、自国の教育の在り方について真摯である。そして、絶え間なく変革をしている。そのアメリカと対比することによって我が国の可能性を引き出したいからに他ならない。

 アメリカの教育の良し悪しは別にしても、アメリカでは、良い事はどんどん取り入れていこうという意欲がある。また、教育の目的やビジョンを具体的な形として現していこうという姿勢がある。観念的で、抽象的な理念をこねくり回すのでもなく。制度に拘泥して、既得権に固執しているわけでもない。何よりも、子供達のことを一番に考えている。

 教育に諦めは禁物である。なぜならば、諦め、絶望した時、成長は止まるからである。成長は必ずしも進化だとは限らない。しかし、成長には、可能性がある。成長を止めた時、同時に可能性も、そして、希望も失われるのである。



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