脳の発育と教育

 学習というのは、自己の行為による自己善と外的規範、双方に対する働きの相互作用によって自己善と外的規範双方を変革することである。
 教育は、自己に対し外側から働きかけ自己の善の形成を支援する事である。

 現代人の多くは、思考や記憶は、言葉だけに依存しているという間違った認識がある。それが、教育の在り方を歪めている。この過ちを最近の脳科学は、証明している。記憶には、陳述記憶と非陳述記憶があり、それぞれを司る脳の部位が違うことが明らかになってきた。つまり、言語と形による思考があるのである。そして、基礎的な思考は、どちらかといえば形による思考が司り、人間的な思考は、言葉による思考によって司られているのである。生きる為に、必要な記憶や思考は、形で覚え、生きていることを現す記憶や思考は、言葉で作る、それが教育の根本である。

 学校教育と職場、社会との決定的な違いは、学校は、陳述記憶(言葉、意味、顕在的記憶、意識)に頼っているのに対し、職場や社会は、非陳述記憶(形、無意味、潜在的記憶、無意識)の世界だと言う事である。言うなれば、学校は、左脳的な世界であり、社会、職場は、右脳的世界だと言う事である。

 百聞は、一見に如かず。言葉より、映像の方が情報量は多い。

 言葉による判断よりも、形による判断の方が早い。故に、スポーツや緊急・救急的判断は形で覚えた方が効果的である。技能的記憶、手続き、日常的な作業、例えば、家を出る時の行為などは、習慣化、即ち、形で記憶した方が間違いがない。しかし、これらの記憶は、潜在化する。
 思想も言葉による思想と形による思想がある。言葉による思想は、顕在的なレベルに記憶されているが、形による思想は、潜在的なレベルに埋め込まれる。形によって形成された、思想は、形として現れる。つまり、態度や姿勢として現れる。場合によっては、生理的、身体的兆候として現れる。言葉でいくらお世辞を言っても本心は、態度に現れる。嫌も嫌も良いのうちという判断は、言葉だけでなく、相手の態度に潜む意味を読みとらないと大変なことになる。言っている事と、やっている事、態度が矛盾することは往々にしてあるのである。
 この顕在的な思想と潜在的な思想の統一性が失われると、人は、人格が分裂し、判断が下せない状況に陥る。故に、潜在的な記憶、即ち、形による学習を不用意にしては成らない。今日の教育の中に叛(逆)の思想を潜在意識に埋め込む傾向がある。つまり、反日的、反国家的、反体制的、反社会的教育は、特に、テレビのような媒体を使った教育は、直接的に脳に刷り込んでしまう危険性がある。テレビは、大量に、一時的に、一方的に、流し込まれる。直接脳に焼き付けられるのである。この様にして潜在意識レベルに焼き付けられた価値観は、意識してもなかなか拭い去れない。顕在意識レベルの規範と潜在意識レベルの規範が対立すると深刻な人格障害を引き起こすことが予測される。過激な男女同権論を理論としてでなく、形として教育するのは、余程慎重にしなければならない。
 思考の枠組みは、型によって作られる。つまり、非陳述記憶によって形成される。故に、規律や礼によって日常的判断の形を教育しておく必要がある。一度、型として記憶した行動規範は、痴呆症になっても維持されるケースすらある。逆に、型による記憶がしっかりしていないと、思考の統制、制御がとれなくなる危険性もある。この様に、型による学習は、自己善、行動規範に基盤、骨格、枠組みを提供する働きがある。故に、礼節に意味がないからといって軽視してはならない。

 自己善は、脳の構造に密接に関係している。故に、脳の発育を充分考慮して教育は組み立てていく必要がある。

 脳は、三つの階層を持っている。一つが爬虫類の脳。もう一つが、旧哺乳類の脳。最後に、新哺乳類の脳。この三つの脳の働きが、自己善を形成する上で重要な働きをしている。
 更に、大脳は、右脳と左脳の二つに分かれていて、右脳は、視覚的な働きを、左脳は、論理的な働きをしている。(「脳のしくみ」泰羅雅登著 池田書店)

 また、人間の記憶には、短期記憶と長期記憶がある。そして、長期記憶には、大きく分けて陳述記憶(宣言的記憶、顕在記憶)と非陳述記憶(非宣言的記憶、潜在記憶、手続き記憶)の二つがある。そして、陳述的記憶には、エピソード記憶、意味記憶がある。非陳述記憶は、技能、プライミング、条件付け、非連合学習(慣れ、習慣)などがある。そして、これらの記憶には階層性がある。(「記憶を強くする」池谷裕二著 ブルーバックス)

 神経心理学では、短期記憶、近似記憶、遠隔記憶の三つに分類する。(「グラフィック学習心理学」山内光哉・赤木豊著 サイエンス社)短期記憶から長期記憶、遠隔記憶へは段階的に置き換えられる。この記憶の変位を捉えて、必要な記憶を効率よく思惟の過程に取り込むことが教育の効果を上げる重大な要素である。

 長期記憶の中で人間的な記憶というのは、陳述記憶である。人間的記憶というと他の記憶よりも重要であるかのごとく錯覚する者もいるが、どの記憶が重要かという事ではなく。人間固有の特徴的な記憶という意味であり、重要度においてかわりはない。陳述的記憶がなぜ、人間的な記憶かというとそれは、高度な言語に関わる記憶だからである。
 この陳述的記憶に偏った教育が為されている。それが、教育を歪める結果は招き、脳の健全な発育を阻害していると思われる。

 脳の健全な発育を促すためには、脳の構造に合わせて訓練や学習の階層化が必要である。手続き的な記憶が、反復的な体験によって習得できる。そして、短期記憶の弱点、限界を補うのは、習慣である。下地となる習慣を身につけさせることによって学習効果は、飛躍的に向上する。下地になる習慣を身につけさせるのは、顕在的な学習ではなく、潜在的な規則的体験に依らなければならない。その為には、階層的な訓練教育が必要となるのである。

 記憶を考える時は、脳の可塑性を充分に考慮する必要がある。

 条件反射、熟練技能、認知的技能は、手続き的記憶である。つまり、生きていく上で必要な記憶の多くが手続き的記憶に含まれている。(「頭が良くなる脳科学講座」大島清著 ナツメ社)この様な手続き的記憶に働きかける為には、礼儀や作法、規律といった型による教育が有効である。この方による教育を現行の教育は軽視しているために、手続き的記憶の上に築かれる行動規範が固まらないのである。

 しかも記憶は、多くの事象を関連づける事によって、より効率的になる。丸暗記というのは、結局、九九のように潜在的な意識に働きかける際には意味がある。コンピューターで言うマスターファイル、辞書的なものであり、トランザクションファイルのように通常使われるための記憶は、エピソード記憶に蓄えられた方が有効である。記憶力というのは、基本的にエピソード記憶の方が効率的である。

 意識は、自己の内面に描かれた世界(イメージ・描像)を土台にして築かれる。この様な描像・イメージは、過去の経験とその時の状況、自分の感情、感覚に結びつけられて形成され、記憶される。良いイメージを持たずに悪いイメージしか描けなければ、能動的な積極的な行動を触発することはできない。例えば、失敗したことばかり思い浮かばなければ、どうすれば成功するかの鍵はつかめない。意識は、最初に土台にしたイメージにとらわれる傾向がある。悪い事ばかり考えると良い方向に意識を向けられなくなる。
 つまり、良い印象に基づかないと、発展的生産的な考え方ができない。故に、快適な印象や成功のイメージを持つことが大事なのである。

 良い描像か、悪い描像かは、外部の評価に依存している部分が大きい。つまり、外部の評価がそのときの印象と結びついて、確定する。そして、誉める事は、快適な印象を強化することなのである。

 しかも、この様な描像は、言語的にしまい込まれる、つまり、保存されるわけではない。映像や音、匂い、感触と言ったものが複合的にしまい込まれるのである。
 誉めるという行為も叱るという行為もこの様な記憶を形成するために、重要な働きをしているのである。

 かつて、学校には、二宮金次郎の銅像があった。それは、教育する側が一つの手本を示していたのである。手本は、手本である。一つの理想像を示しているのである。それを現実は、違う。世の中は、甘くない。そんな理想的な人物はいないと、現実主義や写実主義を持ち出してイメージを破壊する必要はない。何が真実で、何が事実かは、情報の発信者と受け手の関係の中で問われるべき問題である。現実は、汚いからと言って悪いイメージばかりを植え付けたら、子供達が社会や人生に悪いイメージか持てなくなるのは、当然である。それは、敗戦国根性、負け犬根性、植民地根性であり、現実主義でも、写実主義でも、客観性でもない。

 脳の構造と働きについては、いろいろなことが解明されつつある。しかし、重要なことは、脳がどのように傷つけられるかである。また、脳の損傷や奇形と犯罪の間には、何らかの因果関係が存在するのかである。教育の現場では、どのような行為に気をつけなければならないかである。また、体罰が脳にどのような影響をあたえるのかも見極める必要がある。

 幼児虐待や拷問、虐めが脳にどのような傷を負わせるのか。また、幼児期における災害や自己がどのような脳に、損傷を与えるのか。また、化学物質や電磁波、環境ホルモンのようなものがどのような影響を与えるのか。テレビゲームやテレビ、ビデオ、漫画のようなメディアが脳にどのように作用するのか。

 学習と記憶。学習は、記憶だけの問題ではない。そこに、脳科学の限界がある。つまり、学習の根底にあるのは、意志である。その意志を生み出すのところがどこか、それが明らかにされない限り、学習の真の意味は理解できない。その限界を前提として脳科学を教育の中に取り込んでいく必要がある。

 ただ、だからといって脳万能主義に陥るのは、危険である。脳が主に担っているのは、認知の部分である。認知は、いわば、思考の入り口である。出口である意志決定には、自己の主体的な働きが必要である。脳の重要な役割が明らかになるにつれて、唯脳主義みたいな思想を言う者まで現れてきている。しかし、脳は、脳である。脳を肉体の一部と捉えることによって脳の発育に沿った教育が可能となるのである。

 脳科学に認知心理学、発達心理学、学習心理学を結びつけ、脳がどのように発育していくか、また、どのように損傷を与えるかを解明して教育に取り込んでいく必要がある。

 バランスのとれた健全な脳の発育が、健全な自己善を育成する。その為には、健全な脳の発育を促すような教育の仕組みや環境を創造することが必要なのである。




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