地域社会

 地域社会における女性の発言権の向上を図るべきなのである。特に、主婦の発言権の向上を図るべきなのである。地域コミュニティを介して、政治の世界により生活者としての女性の意見を取り込んでいくべきなのである。それが女性の地位の向上にもなり、地域コミュニティの活性化にもなる。ひいてはそれが、民主主義の実現にもつながていくのである。実際、民主主義の実現は、地域コミュニティが鍵を握っている。

 地域社会は、公教育の外枠を形成するものであり、家庭と職場の基礎となるものである。公教育を補完しながら、家庭や社会の背景となるのが、地域社会、地域コミュニティである。

 かつては、農村部においては、共同作業や祭礼などで主役的な働きをしていた。公教育も本来は、地域社会から生み出され、一部の働きを委託される形で発展すべきなのであるが、中央集権的国家体制では、地域コミュニティを支配する形で公教育が導入される。その場合は、地域コミュニティと公教育が対立的な構図を示す場合もある。通常は、中央教育と地方教育の整合性は、融和的、混在的に進行する。

 地域社会や地域コミュニティは、教育だけを担っているわけできない。地域社会のコミュニケーション(集会や寄り合い、子供会、老人会)やしきたり、風俗習慣の伝承、防犯、防災、備蓄、共有財産・共有地の管理、祭礼、冠婚葬祭、緊急時の対応、避難場所の確保、用役、共同作業、生産、開拓、家の建築・改修、老人介護、助産・育児などを担ってきた側面もある。時には、簡単な裁判のようなこともやってきた。特に、農村部や漁村部では、互助的活動や共同体的活動が生活に密着しており、地域コミュニティの力は、国家以上に強い強制力を持っていた時代もあった。

 故に、地域コミュニティには、実利的な要素が強くある。教育もこの様な影響を受けて実際的、社会的なものになる。例えば消防団のように、防火、消防活動を通じて団体生活や秩序を教えていくという具合にである。

 地域コミニュティの仕組みには、町内会、子供組や若衆宿、娘組、青年団、壮年組、嫁組、年寄り組、隣組、寄り合いや集会と言ったものがある。地域コミュニティの組織は、時代背景を色濃く反映する。それは、地域社会が、国家体制を下敷きにしているからである。時には、それが排他的、封建的な働きをすることもあるが、それは、その時代の国家や体制を反映している事が原因なのであり、地域コミュニティ自体が排他的であったり、封建的なのではない。むしろ、民主主義や市民社会においては、自由都市的な先進的な役割を果たしたりしもたケースがある。我が国でも戦国乱世において山城の国一揆や堺みたいに、民主的、先鋭的なコミュニティを築いたこともある。
 中世自由都市のようなものを見ると地域コミュニティは、民主主義の揺籃所と見なしても良い。
 今日、日本では、隣組や村八分のような否定的な要素で地域コミュニティを見る傾向があるが、本来は、民主主義は、地域コミュニティを介して実現するものであり、地域コミュニティが民主的に機能しているか否かが、民主主義のバロメーターでもある。民主主義政治の原点は、市議会、町議会、村議会にあるのである。

 寺子屋や藩校の在り方は、日本型社会、民主主義の起点になりうる。ただ封建時代あったから、封建的だと考えるのは、短絡的すぎる。教育のやり方、在り方の中に民主主義的要素を持ち込めば、充分機能する部分を持っているのである。特に、社会教育という側面は、現代でも十二分に通用する。

 現代社会では、教育の機能の大半が公教育に移管され、地域社会の働きは、かなり弱まっている。また、テレビやビデオ、テレビゲームといったメディアの発達もこの傾向に拍車をかけている。
 この傾向は、地域社会の崩壊や治安の悪化と無縁ではない。また、引きこもりやニートとも無縁ではない。つまり、教育と社会との連続性が失われた結果である。

 社会教育と集団教育の両面が必要だが、公教育では、集団教育できても、社会教育ができない。その結果、常識や社会性が欠落した児童が増加しているのである。

 地域社会における教育は、非陳述記憶を基礎とする傾向がある。どちらかというと右脳的世界である。
 形、型による伝承である。民主主義国では、話し合いのための作法が伝承されている。それが、民主主義の伝統である。話し合いの作法は、形で伝承するものである。演説会や講演会、寄り合いや集会の在り方というものこそ地域コミュニティを民主的に再生するための鍵である。そして、青年団や消防団、子供会といった組織の果たす機能こそ、今日、我が国から失われつつある公共精神、公序良俗を取り戻すため不可欠な要素なのである。そして、真の民主主義を地域社会に根付かせるためにも欠かすことのできない要素なのである。

 また、生活者としての女性の地位の向上には、地域コミュニティ活動の中心を主婦・主夫が担っていくことが肝心である。男女差別の根底には、女性の仕事に対する不当な差別が存在し、それが、女性の社会的な地位の低下を招いている。家事や育児といった家内労働、消費労働を家外労働や所得労働と同等なものにしないかぎり、真の男女平等は実現しない。母親や主婦の存在を認めない事が、女性蔑視に結びついていることに早く気がつくべきである。
 今日の過激な男女平等論は、男女平等ではなく。男女同化、男性化論である事に気がついていない。女性を否定したところに、男女平等は成立しない。
 その意味において地域社会における女性の役割を明確にすると同時に、地域コミュニティの役割を明確にして、その地位の向上を目指すべきなのである。
 PTA活動が好例であるが、またまだ、PTAの役割、機能は、正当に評価されていない。それが公教育の荒廃につながっている。学校の運営や校舎の建て替え、教育プログラム、予算、設備や教材、教科書、教師の任免などにもっと権限が与えられてしかるべきである。PTAは、学校経営の共同経営者のようなものでなければおかしいのである。なぜならば、子供の養育や安全、社会的責任は、最終的に保護者に帰すからである。親は、一生子供達の人生に責任を持ち続けなければならないのに対し、学校は、就学期間だけ責任を負えばいいのである。なのに、同等の権限すら与えられていない。それが問題なのである。逆にそれだけの権限を与えられるのであれば、それは、正規の仕事として認められるべきである。
 生涯教育や老人介護問題が、重要視されている今日、生活者としての家内労働者の意見を行政や地方政治に直接的に反映できる仕組みこそが、求められている。家事労働者や生活者達の政治への直接的な関与が出きる仕組み作りこそ真の男女平等を実現する事である。母親や主婦を否定するのは、結局は、自己否定になる。自分達の立場を確固とした上で、自分達の主張を繰り広げることこそ、大切なのである。そして、それが健全で民主的な地域コミュニティを築くことになるのである。
 私は、女性を家に縛り付けようとは思わない。しかし、外に働きに出れば良いとも思わない。換えってそれは、女性の女性としての立場を危うくしかねない。育児も家事も片手までできる程、安易な仕事ではない。況や、出産は今でも命がけである。女性が、自分達の立場をしっかりと固めて上で、地域コミュニティという場を介して社会に発言し、社会に貢献していけばいいのである。それが民主主義を実現する事にもつながる。
 女性が安心して家庭を護り、築ける社会ことこそ目指すべき社会なのである。




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