犯罪の抑止

 犯罪は、法によって作られる。犯罪は、国によって違う。売春が犯罪になる国もあれば、ならない国もある。賭博行為が犯罪である国もあれば、合法である国もある。時代によっても違う。アメリカでは、過去において飲酒は犯罪だった。現代は、むろん、飲酒は、違法ではない。場所によって許される場所と許されない場所がある。例えば、公営ギャンブルである。所定の場所で賭博をしても許されるが、指定された以外の所で行えば犯罪である。状況によっても違法か、そうでないかの別が生じる。例えば、戦時中には、合法でも平時は違法な行為は沢山ある。
 これらは、犯罪が法によって作らている証拠である。では、法がなければ犯罪はなくなるのか。犯罪はなくなるが、無法地帯になる。つまり、私法による支配の世界になる。人は、無法地帯で自己の生活の安寧を保つことはできない。社会を維持するためには、法が必要なのである。つまり、法は、社会を維持するために、定められた規範なのである。問題は、法を定める手続きである。

 犯罪は、対社会的行為である。

 法は、社会秩序を維持するために、外的強制力を持って個人の行動を規制する。状況によっては、生命、財産、基本的な人権までも奪う。法は、国家を維持する目的で機能している。
 つまり、法は、合目的的な規範であり、目的によっては、相互に矛盾するものも含まれる。良い例が、軍法である。通常の社会においては、人を殺した者は罰せられる。しかし、軍法では、敵を殺さない者が罰せられる。そこには、通常の社会の倫理観は通用しない。法というのは、あくまでも、国家を維持するための合目的的な体系なのである。
 社会一般の常識や倫理観を下敷きにしているといっても倫理観や道徳とは、異質な規範であることを忘れてはならない。

 法は、どのような国家にするのか、国家理念に基づいて制定される。国家意識がない国に遵法精神は育たない。

 法治国家に住む者は、法を所与の法則、普遍的な原理のように捉える傾向があるが、法は、所詮、決め事に過ぎない。故に、法が最終的要求するのは、服従であり、納得ではない。だからこそ、国家は、国民に忠誠心を求めるのである。法を司る者は、この事実を忘れてはならない。
 法は、相対的な体系である。法を成立させている条件によって法の内容が違う。早い話、国が違えば、犯罪が変わる。姦通罪というのがある国では、不倫は罪である。堕胎が犯罪であるかどうかも国によって違う。未成年者の行為も犯罪になるかならないか条件によって違う。精神障害者に対する見方も国によって相違がある。法の在り方によっても犯罪は違ってくる。判例法か。制定法かによって犯罪に対する解釈の仕方が違ってくる。同様に、陪審員制度か否かでもちがう。また、状況によっても法は違ってくる。戦争下で、殺人が犯罪だとしてしまうと、軍人は、全員が犯罪者になる。逆に、軍法に従えば人を殺さない者は、犯罪者になる。
 戦争の惨禍は、物理的、社会的な影響もあるが、より深刻のは、自己善の破壊にある。自己善に反する行為を強要された時、人は、自己の存亡を賭けて自己と社会のいずれに対しても、対決せざるを得なくなるのである。
 なぜならば、法が要求するのは、本質的に服従であり、国家への忠誠だからである。だからこそ、法の制定には、国民的合意が必要なのである。それでも、自己善と過不足なく一致させることはできない。

 道徳の根源は、あくまでも自己善なのである。この自己善が形成する現場が教育の現場なのである。
 公教育は、自己善と法が矛盾しないように教え導くところに一つの任務がある。

 家庭空間によって刷り込まれた原初的価値観と自己を取り囲む外的価値観を対比させる形で、自己の独自の価値観を形成していく。この場合の家庭空間とは、生活の基盤を置いている空間と言う事であり、必ずしも、親子関係が作り出す空間のみを指すのではない。
 幼児教育の重要性がこの点にある。最初に家庭空間で刷り込まれた価値観が以後に形成される土台となるのである。典型的な事例は、幼児虐待をする者は、幼児虐待を受けた経験がある者が多いのは、幼児期に刷り込まれた親の価値観を土台にして、以後の価値観が構成されることに起因する。

 自己は、自己の行動の自由を保とうとする。自己の内面の行動規範と社会の規範が反した時、どちらの規範に従うかの葛藤が生じる。その葛藤を通じて、自己の内面の改革と外面の改革を行うのである。

 犯罪は、自己善と法との相違点で発生する。犯罪の多くは、自己善と法との対立によって引き起こされる。犯罪者の多くは、犯罪だという認識はあっても罪の意識は希薄な場合が多い。それは、社会のルールに反しても内面のルールに反していないと思っている場合が多いからである。人は、自己善に反したら自己意識を保てなくなる。盗人にも五分の理というように、内面の世界の統一を図るためには、人は、自己を正当化するための論理を保持し続ける。

 犯罪は、原因と結果からなる。つまり、動機と行為からなる。犯罪は、動機だけでも、行為だけでも成り立たない。犯罪は、内面の動機と外へ向けられた行為との二面性を持っている。故に、犯罪性の有無、量刑は、動機と行為の両面から検証される。そして、動機と行為は、作用反作用の関係にある。その為に、犯罪は、内面の価値観と行為による外的世界に対し同時に働きかけることになる。

 自己善と法との整合性を保つためには、どのようにすべきかが、重要になる。

 家庭と学校の空間が密室化していることが最大の問題なのである。つまり、学校は、家庭空間によって基礎づけられた価値観を社会的な価値観へ成長発展させるための場である。それが、社会から隔絶し、閉ざされた、特殊な空間であることが、いろいろな弊害を生み出している。そして、そのことによって、犯罪に対する抑止効果が薄れてきているのである。

 法は、社会的規範の一種である。法は、国家を維持する目的で取り決められた規則である。社会的規範は、法だけではない。集団や組織があるところには、その集団や組織を維持するための内部規範が存在する。そして、そこには、その規範を維持するための仕組み、構造が内包されている。子供のグループでも告げ口のような行為には、村八分の様な形でペナルティを課す。このように社会には、多くの規範が重層的に存在する。

 最初は、家庭空間の規範に従い。徐々に遊び仲間や学校の規範に従っていくようになる。そして、最後には、社会の規範や法に従って生きていくのである。
 つまり、家庭空間によって形成された原初的価値基準に基づいた行動を通して、その時その時に所属する集団や組織の規範を、自己の価値基準の中に組み込んで、原初的価値基準を自己独自の価値基準に発展させていくのである。

 どの規範に従うのかは、自己実現を最も促進してくれる集団や組織の規範である。
 学則や法に反しても仲間の違法行為を密告できるかという問題がある。これは、告げ口に対する禁忌を考えれば解る。

 自己の価値観が確立するまでは、いろいろな価値観に対する受容と反発が繰り返される。その時、核となる価値観がしっかりとしていないと、その時々に所属する集団の規範に支配されてしまう危険性がある。特に、家庭空間の規範に反発している時は、反家庭的な規範の集団に近づく傾向がある。その時、そり集団に取り込まれるとその人間の価値観は、その集団の規範に染め上げられてしまう。

 学校の役割は、家庭空間と社会空間の橋渡しをすることである。その意味においては、学校は、知識や技能を与えることより、規範を調整する場を提供することの方が重要なのである。
 性教育の是非に対する議論を聞くが、それ以前に、愛する者に対する規範をもたらすことが重要なのである。その為にこそ、歴史や文学の必要性がある。性に対する硬直的な知識を与えることを教育というのか、それとも、人を愛することの尊さを文学的表現によって教える事を教育というのか。規範を与えるというのは、道徳観を一方的に押し付けることでも知識だけを与えることでもない。自覚させることである。

 学校における教育者の影響力は大きい。その教育者が、反社会的、反家庭的思想を吹き込むのは、犯罪行為である。なぜならば、それ自体が犯罪を誘発しているからである。

 家庭や社会に反する価値観を有する集団に所属すると反家庭的、反社会的な価値観が形成される。
 犯罪は、学習される。良いことばかりを学ぶのではない。悪い事も学ぶのである。しかも悪い事として教わるのではなく。何らかの形で正当化されて教わるのである。そこに働くのは自己善である。つまり、周囲の人間から見て犯罪行為と映るような行為でも当事者は、自己の自己善に照らしてみると必ずしも悪い事と判断していないのである。これは、社会にとって不健全で歪な自己善である。

 成長段階、つまり、未熟な者を放置すると反社会的な集団に接近、接触する危険性があ
る。そして、その反社会的な集団との接触によって不健全な自己善が形成される可能性がある。
 本来、学校には、それを防ぐ目的がある。

 学校や企業のような公共性が強く規則による拘束性が高い空間では、その反作用として補助的な空間が派生する。表の公式的な組織に対して裏の非公式の組織である。これは、表の組織に対する反動であるから、一歩間違うと反体制的な傾向をもつ事になる。この様な裏の組織は、犯罪の温床となる危険性がある。故に、教育者は、非公式な集団や組織の動向を注視、注目する必要がある。

 社会との協調関係を築くためには、自己善を育む集団や組織は、一般的で、平均的、標準的規範によって支配されている集団や組織である事が好ましい。それは、その社会の基礎となる価値基準だからである。あまりにも、世間の常識や良識からかけ離れた組織や集団の中では、健全な自己善は形成されにくいからである。

 故に、異端的な考え方や少数意見、反常識考え方は、教育の現場には、持ち込むべきではない。異端的な意見や少数意見、反常識的な考え方を否定するのではない。ただ、教育の目的に反しているのである。個人として考えをもつというのと、教育者としてもつのとでは意味が違う。

 故に、反体制的、反社会的、反国家的思想は、教育の現場に持ち込んではならない。個人として反体制的、反社会的、反国家的な思想をもつことは、容認されても、教育の現場にそれを持ち込むことは許されない。それは、思想信条の自由とは、別の次元の問題である。
 医師が、安楽死を容認する思想を個人的にもつ事は許されても、法が容認した範囲を逸脱して安楽死を施してはならないというのと同じである。違法だと知っていて、安楽死を正しいとするのと実際にそれを実行に移すというのとは違う。

 社会的規範と自己善の相互作用によって犯罪は抑止できる。しかし、この相互作用が犯罪を抑止する方向に作用しなくなると社会そのものが維持できなくなり、崩壊する。
 要は、内面の価値観と法の価値観との整合性がとれるか否かが重要なのである。故に、民主主義においては、立法行為から国民の意志を反映するような制度が採用されるようになったのである。

 言論の自由も思想信条の自由も国家の独立があって成り立つのである。言論の自由は、国家の独立を侵さない範囲で許されている。故に、国家の独立を危うくするような教育を公教育において容認すべきではない。国家の独立を危うくするのは、国民の主権を維持できることである。国民の主権を侵犯するような行為は許されない。況や、公教育の世界に反体制的思想や反社会的思想を持ち込むべきではない。いきすぎた、男女平等思想による過激な性教育は、保護者の主権を侵犯している。学校は、一部の教育者の実験場ではない。

 法は、国家を維持するためにある。日本という国の教育は、戦後、国を否定されたところから出発している。その為に、国家の利益と言う事を正当に評価することができない。それが犯罪を抑止するための教育がともすると疎かにされる傾向をもっている。
 犯罪を抑止するためには、健全な自己善の育成が重要である。健全な自己善を促すための教育は、国家や社会に対する忠誠が基となる。その為の道徳教育や愛国教育は、軍国主義や国粋主義とは無縁のものである。




                content         


ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、 一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2005.2.28 Keiichirou Koyano