試    験

 筆記試験とは何か。筆記試験の条件を列挙してみよう。
 筆記試験は、基本的に一回だけで、自己完結的、閉鎖的である。
 また、決められた時間内に、与えられた設問に答えを出すことである。
 設問は、予め設定されていて、正解は、大体一つに予め決められている。
 解答は、自分一人でやらなければならない。人の解答を見たり、他人と相談してはならない。質問は、設問に関することに限られていて、しかも、それは、問題を解くために必要な事柄に限定されている。試験は、密室、閉ざされた場所で行われ、外部との接触ができないところで実施される。情報や資料は、試験場に基本的には、持ち込めない。持ち込めるとしても制限がある。
 自分が解答を書いたら、その後は、試験用紙を提出してそれでやることは終了する。後は、採点されるのを待つだけである。実質的に自分は関われない。
 解答用紙は、自分に返される場合と、返されない場合がある。解答の正誤に関しては、基本的に異議は認められない。採点に関しては、問題を解くまでの論理、過程が加味される場合がある。試験終了後の後処理に関しては、基本的に個人の裁量に任されている。

 現行の教育制度は、試験制度によって特徴付けられている。極端な話、筆記試験が全てである。学力の測定も基本的には、筆記試験によって行われる。入学試験の対象となっていない学科は、どうでもいいのである。ところが、この試験制度の目的が今一つハッキリしなのである。

 試験に適している学課も在れば、試験に適していない学課もある。歴史などは、見方によって全然違うものになる。芸術や音楽は、試験のしようがない部分がある。思想や哲学、宗教、性に絡んだ問題は、個人の思想信条の問題に抵触する。国語といっても文学的なことは、個人の主観的な問題である。それらを無理して試験をしようとすると学問の意味そのものも損なわれてしまう。かえって個人の創造性や独創性を阻害し、健全な発育を妨げる結果を招きかねない。試験のできる学課と試験のできない学課があることを忘れてはならない。

 試験とは、本来試みに試してみる事である。人を選別するという機能は本来はない。学習がどの程度進んでいるか、教育の成果は、どれくらい上がっているかを調べるのが、試験の本来の目的である。教育の成果を検証し、次の教育に役立てる。それが、試験の目的である。だから、全員が満点を取ってもかまわないと言うより、望ましいのである。
 つまり、基本的な事が解っていればいいのである。常識問題が解ければいいのである。全員が落第すれすれでは、教育の成果が上がっていないことになる。それが、本来の試験の姿である。
 ところが、現行の試験制度は、人の選別にその目的を置いている。そうなると、全員が満点を取られたら、困るのである。そこから、全員が満点を取れるような試験は、排除されてしまう。

 試験制度そのものを否定するつもりはない。問題は、試験制度が果たしている機能なのである。試験制度は、その本来の機能から逸脱している。試験制度の目的は、選別にあるわけではない。ところが、今日の試験制度の目的は、選別にある。目的が逸脱したことから、試験制度の歪みがはじまっているのである。

 試験制度が悪いというのではなく。その弊害が常軌を逸してきていることが問題なのである。

 学力とは、何か、その根本的な問いかけを忘れている。根本的な目的がわからなければ、結局、意味もなく学力に踊らされることになる。試験の在り方も根本的に違ってくる。学力というのは、重箱をつつくようなマニアックなクイズを解くような力や、意味もなくこねくり回したパズルのよう数式を解く力のことを指すのであろうか。それても、基礎的な能力を指すのであろうか。自ずと明らかである。

 ならばその学力を試す試験制度は、本来どうあるべきなのか。それは、選別を目的とする入試制度と能力を試す資格試験にその差が現れている。確かに、資格試験の中には、選別的な要素が多分に含まれているものもある。しかし、自動車免許のように基礎的な技能の検定を目的としたものもあるのである。本来のあるべき姿は、後者である。

 車の運転に物理学はいらないのである。だから、教習所では教えない。教えるのは、交通法規である。ところが、学校では、力学から教えようとする。馬鹿げている。それで学力が問われたら、何の意味もない。物理学を学んだら、本当に車の運転の技能が向上すると信じているのであろうか。絵描きを志望する人間に語学力を問うのは、似たようなものである。絵は下手でも英語が得意な人間が入学することになる。それで、入学試験の公正の厳正のといったところではじまらない。入試の不正を暴いたところで意味がない。何も本質は変わらないのである。ならば、本当に絵の実力のある者を裏口入学させた方が気が利いている。結局、モラルまで意味がなくなり、廃れてしまう。

 試験に対する公正だの厳正というのは、試験制度が目的に合致しているときに有効なのであり、試験制度から逸脱してしまったら、意味がなくなる。

 不正入学、裏口入学、カンニングは、確かに、個人的なモラルとしては、守られるべきものだが、それは、遵法精神としての意味しかない。もともと、試験そのものが、歪められている以上、それが、学業に支障をきたすような問題ではない。極端な話、大学へ行きたいなら、受験技能を早く習得し、何が何でも合格しなさいよと言う程度の問題である。学業と試験制度は別の論理で動いているのである。

 この様に試験制度そのものが形骸化し、ただ単なる管理の道具、選別の手段に堕落してしまったのである。本来の目的を失って試験制度は、本来の機能を果たし得なくなっている。だからこそ、社会に出た者や社会へ出るのが目前に迫った者は、その事実に気が付いて愕然とするのだ。そして、その失望感、無力感が尾を引くことになるのである。

 入学試験と、資格試験以外の試験や現実を比較してみるても、その問題点が解る。就職試験の時は、必要以上のことは試験しない。

 現実の世界では、試験のように、一回こっきりしかチャンスがないという事はあまりない。極端な話、チャンスは、何度でもある。密室でやられるという事もない。オープンである。一人で、やらなければならないという事も少ない。皆が協力してやる。話し合い、相談して決める。答えが一つという事も、予め決められているという事もない。満点が取りなくても良いという事はない。結果は出さなければならない。五十点、六十点で良いという事はない。極端な話、九十九点でも駄目なものは駄目である。その代わり、満点が取れるまで、何度でも挑戦することが許されている。断片的な一部だけを対象とすることもない。大体において一貫したものを持っている。また、結果が出た後何もしなくてもいい、できないという事はない。むしろ後処理、後始末の方が大変である。また、一つ一つの事柄が単体であるという事は珍しい。作業や仕事は、一連の流れて続き上の一過程に過ぎない。前後の脈絡が大切なのである。この様に、現実は、筆記試験と正反対である。この正反対な制度を基礎に教育すれば、現実から乖離するのは、当然の帰結である。

 試験勉強が無駄だとは言わない。試験勉強もそれなりの効用もあるし、意義もある。ただし、それも、その試験の内容が、意義あるものならばという前提に立ってである。
 カルトクイズや謎解きのようなものを学問というならば、話は別である。試験が試すべき事は、本来常識なのである。非常識ではない。では、現行の試験問題はどうか。常識的な問題を出していたら、選別はできない。だから、非常識な問題になる。当然、受験生も非常識なことばかり勉強して。非常識になる。かくして、学のあるバカを大量生産することになる。

 更に言うならば、試験の中でも、筆記試験を絶対視している事が問題なのである。試験は、本来、補助的なものにすぎない。筆記試験が本来の目的を逸脱し、それが教育制度の骨格を歪めているというのに、その筆記試験を絶対視したらどうなるのか。その結果、ニートやフリーター、引き籠もり、果ては、少年犯罪、幼児虐殺、集団自殺を引き起こしていると考える方がまともである。

 試験勉強で覚えた事は、時間がたてば忘れてしまう。使わないからである。忘れることを前提とした勉強に人生で最も有意義な時間をただ浪費される。その身になって考えてみろ。彼等が、社会や大人に絶望し、粗暴になり、あるいは、無気力になっていくのは、当然ではないか。




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