修行と座学

 今の教育は、集合教育、それも、講義型の授業一辺倒であるが、本来教育は、多様なものである。
 現に、現代社会は、カルチャースクールやカルチャーセンターが大流行である。また、英会話教室や料理教室のような実用的な教室も多くある。企業は、企業で企業内訓練に血道を上げている。
 その他に、資格のための勉強や学校も流行っている。学校は、学校で、家庭教師や塾、スポーツクラブなどが盛況だ。休みになると、皆、課外活動、部活に熱中する。一番退屈のは、学校教育である。学校教育こそ、教育の要であるはずなのにである。
 受験勉強から解放されると皆生き生きと勉強を始める。なぜなのだろう。喜んで、しかも、生涯学習として取り組んでいる。
 学校教育との決定的な違いは、実践が主体だと言う事である。そして、自分の選択権があるという事である。更に言えば、自分にとっての価値、やりがいや実用性がある、役に立つと言う事である。
 受験勉強は、技術に過ぎない。しかも、受験にしか役に立たない技術である。だから、受験が終わると忘れてしまう。しかし、カルチャーセンターや企業で習う事は、一生、役に立つか、楽しめる。なのに、正規の教育では、カルチャーセンターや企業内訓練は、教育とは認めない。少なくとも権威がない。

 教育思想の本流は、ルソー以来、経験主義教育である。それなのに、経験主義教育は、正規の学校教育の主流にはなりえない。そこが問題なのである。なぜ、正規の教育の主流とはなりえないのか、それは、一般に、経験主義教育は、管理がしにくいと思われているからである。しかし、企業内教育を含め、一般社会の教育は、今も昔も、経験主義教育が主流である。要するに、学校教育に経験主義教育がなじまないと言うだけである。

 経験を重んじるか否かの問題は、実際は、実践か知識かの問題なのである。一定の期間に、集団に対する一定の成果を上げ、それを測定しようとしたら、経験主義教育は、不適合である。つまり、効率や生産性が悪すぎるのである。効率や生産性を重んじると、現行の教育システムにならざるを得ない。それは、学力を基準に見るからである。しかし、学力だけで人間の成長を測定することが果たして可能であろうか。その点に関し、誰もが疑問を感じているはずである。誰もが疑問を感じながらも、現行のシステムに代わるシステムがないから続けているに過ぎない。

 実践と知識は、教育の両輪である。座学し、それを実践して、身につける。それが教育の基本である。その実践を司っていたのが、修行である。現行の教育制度が確立される過程で、この修行という部分が脱落した。本来は、座学して得た知識を実践して検証したのだが、修行という部分が欠落したことで、学んだ事を検証する手段を失ったのである。その為に、知識も行き場所を失い。丸暗記するしかなくなったのである。数学も、検証すべき実体がなくなり、問題を解く技術に成り下がった。科学的といいながら、科学が重視する実体を喪失したのである。
 その為に、教育は、教育の世界だけに特化し、現実から乖離していったのである。

 修行は、言葉に依らない教育の一種である。つまり、言葉そのものには、意味がない、説明が付かない、一連の動作や形に意味を持たせることに依る教育である。言葉に依らないとは、言葉を使わなかったり、言葉を補助的な手段、道具として使う教育である。例えば、言葉は、号令や指示、これからやることの説明のような時に使い。言葉によって教えるということはしない。
 神聖、尊敬、規律、団結などを、瞑想や礼儀、運動やスポーツといった一連の動作や象徴的な形によって学習をする。これを修行という。例えば礼儀作法によって尊敬心や神聖さを表現し、表現することによって、相手にも、自分にも緊張感や敬虔な気持ちを起こさせるというようなことである。また、黙祷によって哀悼の念を示し、悲しみを共有すると言ったことである。
 この様に、何らかの実践を通して、自己の内面を鍛える。それが修行である。

 責任感というのは、言葉で教える者ではない。持たせて教える者である。恥はかいて知るものである。
 緊張感をもって仕事をしなさいと言うが、この緊張感を持つと言う事を言葉で教える事はできない。もっといえば、緊張感を持てといわれている相手は、緊張している場合が多いのである。その場合、緊張しているのに、緊張感がないと指摘されるのであるから、指摘された者は、反発するしかなくなる。緊張感を教えようとしたら、緊張する状況を作り上げるしかないのである。

 泳げない者に、泳ぎを教える場合、留意しなければならないのは、泳ぎを教えようとする相手は、泳げるようになる直前まで泳げないという事である。このごく当たり前なことを忘れるか、失念している場合がある。

 泳げない人間にいくら言葉で、例えば、書物やビデオで教えようとしても無駄である。泳ぎを教えるためには、とにかく泳がせるしかないのである。しかもその前に、水に入れなければならない。この一線を越えるのが難しいのである。特に、泳げない者は、自分が泳げないと思いこんでいるし、泳げる者は、泳げないのが不思議なのである。
 これは、もっと簡単に見えること、歩くとか、話すとか、食べると言ったことなら尚更のことである。できないことができる人間には、理解できないのである。
 理解できないことが弱点になり、指導に支障をきたすという悪循環を引き起こすのである。このことは、幼児教育に顕著に現れる。 
 水泳を泳げない者に教えるには、実際に泳がす以外にないのである。その上ではじめて、言葉による知識が役に立つ。

 泳げない者は、泳げないという事自体に防御装置を持っている。その為に、水泳に関連した事を連想させただけで、その自己防御機能が作動する危険性があるのである。

 泳げる者は、泳げない者の気持ちが分からない。故に、この自己防御機能が働いていることに気が付かない場合がある。

 泳げない者は、泳げるようになる直前まで泳げない。問題は、泳げる者が、泳げない者にいかに一線を越えさせるかなのである。それは、実地に行うしかないのである。この一線を越えてはじめて、知識が役に立つのである。一線を越えさせることなく、知識を教えてもその知識は、役にたたにない。教育者、常に、この紙一重の差、一線の上に立たされていることを忘れてはならない。

 言葉で説明すれば測るはずだというのは、傲慢なのである。言葉で説明しても解らないからどうすればいいのかを考えるのである。それが教育である。言葉で解る者は、教わらなくても理解できる。言葉だけで解らないから、教育者が必要なのである。解らないと言って馬鹿にしたら、身も蓋もない。それは、教育者にとって自己否定以外の何ものでもない。

 相手ができないという事を忘れ、なぜできないのかを観察すること、洞察することを忘れてしまえば、教育は成り立たない。自分にできて、相手にできない事を教える事が、教育のはじめであり、更に、自分にもできない事を教えられるようになって、本物の教育者になれるのである。できないところや足りない所を責めても相手は、自己防衛に走るだけである。それは、教育が向かうべき方向とは、逆の方向である。劣等感や自尊心を無意味にいじくるのは、危険な行為である。
 足りない所、できないところを補い合うのが教育の本質なのである。

 教育は、現実による検証がなければ実効力がない。教育に実効力を持たせるためには、実践的教育が必要なのである。実践的教育は、カルチャーセンターや企業内教育で実証済みである。学校教育に取り込めないはずがないのである。問題は、当事者の意識の問題である。しかし、意識の問題だといっていられるほど自体は、甘くない。それ故に、学校は、荒廃し、教育におけるサブカルチャーが隆盛を極めているのである。

 自動車教習所は、ある意味で教育の一つの方向性を示している。自動車教習所は、目的を特化して成立している。しかし、その為に、無駄なものがあまりない。教習の部分が形骸化しているのが問題だか、実践と座学をバランスしていることは間違いない。しかも、年令による差別がない。個人差や個人の都合に適合している。ある意味で最も平等なシステムである。目的を特化したことが有効に作用している好例である。

 少なくとも、教育の専門家が、教育として認めていない部分に活路がある様に思えるのである。
 
 いずれにせよ、現行の教育の中に実践という要素を復活させる必要がある。中でも、修行が重要である。修行、修養、研鑽、研修、これらを正規の教育の中に取り込むことができるかどうかが、教育改革を実効たらしめるかどうか分かれ道である。




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