指導の基本

 教育は、習慣を身につけさせることである。勉強は、当人がする。その環境を整え、良い習慣を身につけさせる事が、教育です。だから、躾(しつけ)が大切なのだ。直接、脳味噌に働きかけて、学力を上げようなんて言うのは邪道である。試験勉強は、技術、技能訓練である。そう思って、割り切ることだ。割り切れない者は、早く別の道を模索することである。進学だけが人生ではない。人生至る所に青山ありである。

 故に、指導の基本は、躾(しつけ)である。躾の根本は、毎日の繰り返しである。日常的な基本動作をきちんと繰り返させることである。つまり、日常生活の形にある。日本の格技を見れば解る。剣道も柔道も礼に始まり、礼に終わる。茶道も華道も様式美である。様式美で自分の思想を表現する。技能は、自分で磨く。

 だから、先ずやってみせる。挙止動作は、見て覚えるものである。次にやらせてみる。挙止動作は、自分で実践しなければ、身に付かない。その上で、評価をする。挙止動作は、評価されないと正しいかどうかが解らない。教育の基本は、その繰り返しである。

 波状・反復・繰り返し。同じ事を繰り返させる。少なくとも四回は、同じ事をやらせる。同じ事を単純に繰り返すという事は、はじめは苦痛である。そこに、落とし穴がある。
 同じ事を毎日繰り返さなければ、習慣にはならない。問題は、学生生活で良い習慣が身に付いているかである。
 武道ならば、道場の清掃から始まる。そして、道場の清掃に終わる。練習の準備は自分でする。練習の支度は、後輩がする。後輩の面倒は先輩がする。この様な形に教育の本質が隠されている。

 現行の学校生活には、支度と後始末が欠けている。決められた時間に、決められた場所へ行けば、時間は流れていく。それが習慣になる。だから、礼儀が身に付かない。支度も後始末もできない。準備も、段取りもできない。人の面倒も見られない。そして、決められた事しかできない。言われたとおりにしかできない。教わった事しかできない。聞かなければできない。ちゃんと一定時間で集中力がとぎれる。昼休みはしっかりとる。チャイムが鳴ると帰り支度を始める。全て、習慣の為せる業(わざ)である。

 教育の要諦は、繰り返しと集中である。
 そして、一貫性を持たせるてやる事である。最初から最後までやらせる事が大切である。
 最後にきちんと評価してやることである。

 数多くの問題をひたすら解かせるというのは、極めて非効率な学習方法である。きちんと最後まで解けるようになるまで、同じ問題を解かせる。場合に依ったら、答えを写させる。それが理にかなった学習方法である。学習というのは、謎解きやクイズのようなものとは違うのである。
 数学の問題も、最後まで、一度辿ることで論理の道筋を覚えられる。下見もせず、地図もなければ、道に迷うばかりである。論理は、道筋であって、なぞなぞではない。最初から最後までの一貫した道を辿っておかなければ、道は覚えられないのである。
 毎日、違ったことをやる方が上達するか、同じ事を繰り返した方が上達するか、スポーツを考えれば解る。分厚い本を沢山読む方が、身に付くか、一冊の本を繰り返し読む方が身に付くか、車の教習を考えれば解る。

 毎日違うことを教える先生がいたら、それは、自分以上の上達を望まない先生である。毎日違ったことをやらせておいたら、その生徒は、絶対に先生を追い越すことはできない。同じ事を教えたら、一定の時間でその先生を追い越すことは可能であろう。

 同じ事を何十年もしてきた人の技を追い越すことは難しい。反対に毎年、違うことをしてきた人間の業を越える事は容易い。何十年も同じ事をしてきた人間には、時間の経過がある。それに対し、違うことをしてきた人間は、何に対しても初心者の域を出ていない。しかも、ある年令を超えると人間の能力は衰え始める。歳をとって必要な技能を身につけていない者は、後がない。だから、同じ事をやり続けた者には、最後には、かなわなくなる。

 学習は、相互作用である。フィードバックの働きが鍵となるのである。故に、一回一回その場で評価してやることである。自分がやっていることが正しいのか、間違っているのか、最後まで解らなかったら、学習はできない。自分が今どの辺にいるのかは、当人には解らないのである。だから、必ずフィードバックをする。これが、教育の要諦である。逆に教えるというのは、フィードバックを指しているのである。学習主体と教育主体との間は、鏡像関係にあるのである。

 芸術作品に点数をつけることはできない。重要なことは、評価である。評価の仕方である。それが試験の結果一辺倒では偏りが生じる。自分の歪んだ像しか見えない。評価の仕方を明らかにする時、何に対し、どのように評価するのかが問題になるのである。

 評価の対象となるのは、能力と意欲、適正である。ところが、現在の教育制度は、結果でしか評価をしていない。それも試験の結果である。こうなると、教育の全てが、試験の結果に置き換わるのは、必然的帰結、時間の問題である。

 指導の目的は、能力と意欲、適正をどう評価するかにつきる。それをどう指導の基本に据えていくか、組み込んでいくかが、指導の基本になるのである。




                content         


ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、 一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2005.2.16 Keiichirou Koyano