教育の働き(相互作用)

 自己は、自分の肉体を媒体にして、自己の行為・運動をつうじて外界を認識する。この様な自己認識は、必然的に自己の肉体的限界に制約されている。また、自己の認識作用は、自己の内面と外界との双方に働きかける。この働きかけは、見る、聞くと言った受動的・消極的働きかけも含める。
 教育は、この様な自己に依拠している。故に、自己の在り方と外界との関わり方が、教育を規定する。

 この様な自己は、主体的存在である。主現体的存在である。霊的存在である。存在そのものである。そして、間接的認識対象である。この人間の存在形態、在り方が認識の作用反作用を生み出している。

 教育の三つの要素は、第一に教習、第二に、指導、第三に、学習・研究である。
 この内の一と二は、作用反作用の関係にある。つまり、人は、教え教わり、教わり教えの関係にあるのである。また、第三の学習は、外界との作用反作用を示している。つまり、外界に働きかけることによって学ぶのが、学習である。これが教育の基本的作用を成立させている。

 認識は、相対的である。故に、内面に比較対照のための基準や尺度、モデル、世界がなければ、認識作用は、成立しない。その為には、最初の基準が重要なのである。
 最初の基準は、肉体的な制約の中で対象を模写・写像することに依る。真似である。外界を模倣、真似することによって自分の内に核となる世界を築くのである。これが、学習の始まりである。この最初に築かれる世界は、自己の肉体的条件によって制約を受けている。つまり、自分が最初に見た世界、触れた世界、聞いた世界、嗅いだ世界、感じた世界が、ベースとなって認識がはじまる。必然的に肉体との特徴をそのまま取り入れてしまう。

 認識の基本は、位置と運動と関係である。

 位置には、力が隠されている。位置は、運動や働きの源である。それぞれが置かれている立場によって働きや力が生まれる。それは、何も、社会的地位だけを意味するのではない。例えば、母と子は、母という立場、子という立場によって働きや役割、力が生じるのである。そして、それは、引き合う力と反発する力とに依って成り立っている。これらの位置と働きが人間関係を生み出している。

 運動には、方向と大きさ(強さ)、働きがある。運動の働きには、引力と斥力がある。方向には、内面に向かう求心力と外面に向かう遠心力とがある。

 自己の内面の志向は、外部に向かう行為・行動・言動・表情という形で表現される。表面に現れた行動や行為・言動・表情に対して外部に働いている力が、順である場合は、促進的に、逆である場合は、抑制的に作用する。促進的な作用は、快感に、抑制的な作用は、不快感に作用する。快感は、充足感を、不快感は抵抗感や渇望感を高揚する。充足感は自制的な力が働かせ、抵抗感や渇望感は、反発力を引き起こす。
 この双方向の力の均衡によって行動は、制御される。同時に、快感や不快感がもたらされた行為・行動・言動は、自己が納得するまで繰り返され、内面の価値観や行動規範に反映され、取り込まれていく。
 強い快感を繰り返し与えられると、自家中毒をおこし、自制心が効かなくなり、自己の行動の抑制ができなくなる。そして、快楽を独占しようとして、排他的、攻撃的になる。逆に、繰り返し抑圧されたり、強い苦痛を伴う場合、反発力は麻痺し、無力化される。そして、不快感から逃れようとして、逃避的、閉鎖的になる。
 これら過剰な反応は、自己の内面に強く作用し、肉体的にも、精神的にも傷を残す事がある。

 関係には、法則がある。人間関係には、原則や規則がある。人間関係は、それぞれが置かれている立場、位置とその働き、役割によって生じる。

 快感に作用する行動・行為。言動は、人間関係の引力となり、人間関係を結びつけていく。逆に、不快感に作用する行動・行為・言動は、人間関係の斥力に作用し、人間関係上の対立関係を作り出す。引力と斥力の統合的な作用によって人間関係の法則は、形成されていく。

 その場のベースに働く原則や法則が前提となって人間関係は、築かれる。しかし、人間関係は、力関係によって変化する。力関係は、不変ではなく、常に流動的である。それは、個々の人間が相互に働きかけて新しい人間関係を生み出しているからである。
 そして、この位置と運動と関係が場を成立させている。教育は、この場の力関係に依拠して成り立っているのである。

 人間の行動は、内面の法則と社会的法則を形成する。しかし、内面の法則と社会的法則は、それぞれ受ける制約によって、異質な発展をする。自己は、この様に成立した内面の法則と社会的法則の整合性をとろうとする。この内面の法則と社会的法則の整合性をとろうとする行動が自己と社会双方の変革を促すのである。そして、その変革しようとする力が、教育の原動力となるのである。故に、教育には、自己の内面の変革と共に、社会を変革しようとする力が働く。この二つの力を前向きなものにした時、自己変革と社会変革は、相乗的な力を発揮するのである。

 場に働く力と自己の動きがどのような作用をそれぞれの要素、主体に作用するのか。影響を与えるのかをよく観察し、その動きや作用に応じてそれぞれの位置関係や働きかけをどういうに変更していくかを考えるのが、教育の主な働きになる。
 位置は、認識や記憶に還元され、知識に昇華される。その知識に基づいて主体は、判断を下し、行動に転化する。行動は、位置、即ち、立場をに働きかけながら人間関係を再構築していくのである。この一連の過程が教育的効果を生み出すのである。

 行動が自己の内面や外的関係にどのような変化をもたらすのかを見極め。それを在るべき姿に導いていくのが教育なのである。

 喧嘩も虐めも相互作用である。一方が良いとか、悪いとか言う問題ではない。当事者間でしかわからない論理が働いている。それを無視すると、それが抑圧になる。
 子供達は、喧嘩や虐めを通じて人間関係を築いていく。故に、喧嘩や虐めを一概に悪いとしてしまうと、健全な人間関係が築けなくなる。喧嘩や虐めを禁止すること自体が抑圧になる。それに、いくら禁止したところで、根本的な相互作用であるから、喧嘩も虐めもなくならない。
 ただ、相互作用であるから、自ずとルールがある。そのルールを守ることによって人間同士のコミュニケーションを築くのである。ルールそのものに思想や哲学、文化が隠されている。喧嘩両成敗というのが良い例である。喧嘩や虐めのルールは、歴史や伝統、風俗、地域の掟、即ち、文化が隠されているのである。

 喧嘩のルールは、我々は、髪の毛を引っ張りのは駄目。噛むのも駄目。石や武器を持つのは、卑怯。不意打ちは、卑怯。後ろから攻めるのも卑怯。ロープやひもを首に巻いてはならない。首を絞めても駄目。急所を狙ってはならない。泣いたら負け。逃げたら負け。勝っても負けても、言い訳はしてはならない。大人が子供の喧嘩に口を出すのもルール違反。大人に言いつけるのは、裏切り。決着が付いたら仲直りをして、後を引かない。いつまでも根に持ってはいけない。捨てぜりふは、未練、卑劣だ。言葉の攻撃は、弱い者のする事と先輩や親から教わって育った。そして、喧嘩は、基本的に同人数か、一対一でやるものだという事である。これは、喧嘩と言うより、決闘のルールであるが。とにかく、お互いの力が拮抗した状態でなければ、喧嘩は、成り立たない。そうでなければ、弱い者虐めであり、暴行であり、虐待なのである。

 虐めにもルールがある。典型が、弱い者(圧倒的に力の差がある者)虐めはするなと言う事である。また、相手の身体的欠点に対する攻撃もルール違反である。致命的な欠点・直せない欠点に触れるのも駄目。抵抗できない人間を虐めてはならない。それから、個人攻撃も禁じ手である。

 喧嘩や虐めに、ルールがあるのだから、当然、練習しなければならない。学ばなければならない。つまり、喧嘩や虐めによって人々は、学んできたのである。
 喧嘩や虐めは、相互作用である。相互作用と言う事は、訓練をされてない者が不用意にすると、自分も相手も傷つけてしまうことになる。だからこそ、子供の頃から、喧嘩のルール、虐めのルールを厳しく躾られたのである。

 この様に、教育は、相互作用によって成り立っている。教育そのものが両刃の刃になることを忘れてはならない。



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