エピローグ

 今の教育の矛盾は、今に始まるのではない。ずっと以前、この国が作られた時に、既に内包されているのである。

 何事も最初が肝心なのである。始めに間違えば、その影響は、ずっと尾を引くことになる。

 教育は、子供を身籠もった時から始まっているのである。否それ以前かも知れない。子供を育てきる覚悟もせずに妊娠する事自体、無謀なのである。教育を論じる時、自分が子供を産み育てると言う事の意義をきちんと教えているかは、重要な判断の基準である。ところが、今は、性教育と避妊、性病の知識を教えればいい、それが教育だと思っている人間が多い。それでは、心構えや人間としての生き方を教えらることはできない。教育云々という以前の問題である。

 学級崩壊が言われて久しい。しかし、学級崩壊は、結果であり、原因ではない。原因を明らかにしないかぎり、問題は解決しない。対症療法では限界があるのである。

 戦後我々は、いろいろな思想をいろいろな局面で植え付けられている。それも巧妙なやり方で。キーワードとなる言葉を考えるとよく解る。その中には、相反する考えを植え込むことによって正常な意志決定ができなくなるように仕向けられたものすらある。戦後の教育は、戦前の教育の表裏を為すネガ、反転のようなものである。合わせて考えるといろいろな事が見えてくる。
 例えば次のような事柄である。他人は、他人。人の意見をよく聞き、相手の意見を尊重しなさい。迷惑をかけなければ何をやってもいい。何事もよく考えてから決めなさい。自分の言葉で言えと言って、言い換えさせたり、言葉を置き換えさせる。(言い換えたり、言葉を置き換えると言っている事の内容が変わってしまう。)全ては、話し合いで解決できる。(民主主義の心髄は会議にある。)意見を言うと言うことは、反対することだ。反対できなければ、反対意見を言えなければ駄目だ。中立、公正、公平。人は、皆平等である。客観性こそ科学の神髄。多数決で決めた事は、正しい。多数決は正しい。それでいて、少数意見も尊重しなさい。(これでは何も決められない。)反国家、反体制、反権威こそが言論の在り方である。何でも疑ってみなさい(懐疑主義)。この世に絶対的なものはなく、全ては相対的なのだ。これらは、戦後民主主義の基本理念として持ち込まれた。何事も懐疑的に、批判的に考えろと教えながら、これらの事は、疑ることが許されなかった。

 最近は、ここに市場原理が加わってきた。市場価値に全てを委ねてしまえと言う思想である。しかし、市場価値も内面の基準とは違う。外形的基準である。つまり、自己の外部・市場によって決められる価値基準である。しかも、貨幣価値によって測られる。人間本来の価値は、外部にあるわけではない。この様な価値は、偏差値と変わらない。自己の主体性が全く働かない価値である。この様な外部価値によって自己の倫理は規定できない。結局、金が全てという人間を正当化するだけである。内面的な価値基準が固まらない内にこの様な外形的価値観に支配されれば、結局、外部の人間の、ここでは、市場の操り人形になるだけである。しかも、自分は、いつまでたっても満たされることはない。

 何が、一番問題なのか。
 このことによって内心の規律のない人格、中心を欠いた思想が生み出されている事である。このことによって、自分では何も決められない人間を生み出し、それらの人間が社会的に責任を果たしていかなければならない世代にさしかかっているのである。
 我々が教育されてきたものは、自己の外部から自己の行動を抑止するように働きかけるような規範ばかりだという点である。外圧である。戦後の日本人は、外圧に弱い。すぐに他人・外部の力によって管理しようとする。
 つまり、内面の規律を持たせたり、内面の規律に直接働きかけて自省させようと言う教育ではないという点である。

 内面の規律がないという事は、意志決定機能の中心に空洞ができると言う事である。しかも、一定の臨界期を過ぎると、この空洞は、埋まることなく、拡大し、意志決定機能を破壊してしまう危険性がある。若年性の認知症(痴呆症)の中には、これまで考えられた器質的な認知症以外にこの思考性の認知症が含まれているように思われる。
 意志決定機能の中心に空洞ができるとどうなるか。意志決定をするためには、思考を収束・凝集させなければならない。その為には、意志決定をするための基準価値観は、収束
・凝縮する方向に働きかけるものでなければならない。ところが、意志決定のための基準や回路が、問題が煮詰まり、一定の結論に凝集させようとすると、結論に至る過程で個々の要素を反発させたり、分解してしまったりして発散・分解させてしまうのである。また、思考回路そのものが、思考の流れに急ブレーキをかけたり、逆流させることによって、意志決定ができないようにする。その為に、極端な飛躍や思考の停止・凍結、逆転したり、転倒した結論、思考のループといった現象を引き起こす。また、出された結論と正反対の行動をしたり、結論が行動に結びつかないと言った現象も引き起こす場合もある。言っている事とやっていることが全然違う、チグハグしている。言うだけで何もやらない。できない。いつまでたっても結論が出ない。結論に近づくと急に飛躍したり、話をそらしたり、脇道にそれたり、最初に話が逆戻りしたり、話の筋が飛んだり、はぐらかしたり、曖昧になる。極端な場合、急にキレて、怒り出したり、痙攣したり、震えたり、いじけたり、泣き出したり、黙り込んだり、急にしゃべれなくなったり、どもったり、感情的になったりする。つまり、話のできる状態でなくなる。
 また、物事の関連づけができないで、仕事の段取りができなかったり、当事者意識が持てずに、いつまでも、自分のことを他人事のようにしか思えない。
 その結果、周囲の者には、その人間の判断や行動が予測不可能な状態に陥ってしまうのである。
 そして、より深刻なのは、この様な意志決定機能の空洞を作っているのが、他ならぬ義務教育だと言う事である。

 自分の考えが持てずに、外面ばかりを気にするように仕向けると、外側からの圧力によってしか物事が決められなくなってしまう。中心を欠く、中心が空洞という人格とは、何事も外からの力がないければ決められないような人間を指して言う。日本人として日本がどうあるべきかを語れずに、アメリカがこう言っているから、中国が、ああ言っているからと右往左往する。そう言う風な者である。皆がやっているからやる。赤信号皆で渡れば怖くないである。自分が悪いのは、世の中が悪いからだ。親の育てかたが悪かったから。自分が何を食べたいかも決められず、皆の同じ物でいい。反対に、その場の状況を理解せずに自分の食べたいものだけを食べようとする。この様な自覚は、いつまでも自立できず、自分以外の人間に依存しなければ生きていけなくなってしまう。いつまでたっても親かがりなのである。親に反発するのも自立していなければ、同じ事である。
 自分では、何事も判断できない。周囲の状況を認識できないのである。目の前にある物でも認識できない。こうなると軽度の認知症であるが、それが、かなり早い時期に現れたり、認知症というのでもないのに現れたりする。それは、物事を認知するためには、受容すべき主体がなければならないのに、その受容すべき主体がないからである。だから犯罪を犯しても自覚がない。自分の行動すら認知していないのである。

 誰かの助けがなければ何も決められないのに、現在自分が置かれている状況は、その助けてくれた人間が作り出しているという風に思いこむのである。困ったことが生じると、自分の力で状況を改善するのではなく、誰かが、その状況を打開し、改善してくれることを期待する。そして、誰もその状況を打開してくれる者が現れないと、自分の理解者や庇護者を逆恨みする。

 すいません。すいませんと何かあると謝ってばかりいる。他人の意見を尊重しろ。あの人はこう言っている。体面が悪いといい続けるから人の目ばかり気にして自分が持てない子供を育てることになる。自分の意見を持って他人の意見を尊重しろであり、自分の意見を持たぬ者は、人の意見なんて受け容れようがないことを教えなければならない。

 最近も、自分の母親を撲殺した三十歳の男性やつき合っている相手を刺殺した二十代の男性が新聞紙上に載った。共通しているのは、定職に就いていない。大切に育てられた。自分の一番身近の理解者を些細な事を注意された事で殺している。それから、自分の罪を認知していないという事である。また、十年以上も少女を監禁した男もいた。これらは、中心を欠いた人格によって引き起こされた事件だと考えるべきである。

 自分のない人間に意志決定をさせることほど困難な仕事はない。外堀・内堀を埋めながらその人間が答えを出せるように外部から誘導していくいか、強い力で言うことを聞かせるぐらいしかない。しかし、最後は、当人が決めなければならない。その時、プレッシャー・圧力に耐え切れなければ、爆発してしまう。切れてしまう。いずれにせよ、人間としての核を欠いているのである。

 この様な人格を形成・作り出すのが、外形的な基準で行動を抑止しようとする教育である。つまり、内面の基準を育てないで外部からの圧力によって行動を抑止しようとする教育である。試験制度がその典型である。管理する側から見ると管理しやすく、管理者の責任も感じにくい。

 では、教育や躾のなかで、どのような概念、キーワードがこの様な人格を作り出すのであろう。

 その好例が客観性の重視である。何でもかんでも客観的であれば、科学的で、近代的だという信仰である。その背後には、科学信仰がある。

 客観性に潜む罠を見抜かなければならない。客観性と相対性は、科学主義と民主主義が結びついて流布した。しかし、客観性と相対性の正しい意味は、理解されずに、都合良く解釈されて自己の正当化に使われている。
 客観性と言うのは、主観と排反的関係にある。同時、客観的な立場と主観的な立場には立てない。また、主観、客観とは、視点の違いに過ぎないとも言える。
 他人の行動に対しては、やたら厳しく、適切な判断が下せるのに、自分のことに関しては、何も決められないと言う人間を育ててしまう。他人に厳しく、自分に甘いである。
 要するに、自分の意見を持てといい、自分の意見を言えと言いながら、自分の意見を言おうとすると客観的になれと言う。これでは、どうしていいか判らなくなる。右と言えば左、左と言えば右。だからこそ、物事には順番がある。自分の意見を持った上で、人の意見を聞く。この逆、相手の意見を聞いてから、自分の意見を言えば、本心が分からなくなる。
 客観性にこだわれば、自分がなくなる。その典型が、メディアである。客観性と言うから主張がなくなる。主張がなくなると言うより、客観性という事によって自分をカモフラージュして相手を油断させ、自分を正当化し、洗脳しているのである。客観的というが実は、かなりの独善なのである。
 基本的に、人間は、主観的な存在である。主観的な存在であることを前提とした上で、客観的な立場、つまり、自分とは違う立場を尊重するのである。言い換えると、主観的な立場というのは、自分だけであり、自分以外の認識、考えというのは、全て客観的なのである。故に、客観的な立場というのは、先ず自分の立場、意見を明らかにし、第三者の意見を自分の意見比較していく行為を指して言うのである。そのことを理解しないと、客観性という事の意味は理解できない。そして、比較するから相対的になるのである。比較しなければ、相対性は出ない。意志決定というのは、主観的なものである。主観を否定したら、自分で意志決定ができなくなる。自分で何も決められなくなるのは必然的な帰結である。
 また、百歩譲って客観的な認識を重視する。つまり、他人の意見を尊重すると言っても、客観性というのは、認識の問題にすぎない。意志決定や判断を下すためには、一度、分析、分解した情報を知識として再構築する必要がある。再構築するためには、主観に委ねなければならない。どちらにしても主観的判断から逃れられない。人間は、主体的存在なのである。

 もう一つ付け加えれば、考えたら、決められない。決めたら考えられる。決断に必要なのは、第一感、直観力である。決めれば、変更することも、修正することも、取り消すこともできる。しかし、考えてばかりいたら何も決められなくなる。ある人が好きか嫌いかは、感覚的問題である。好きな理由も嫌いな理由も後で考えれば判る。理由があって嫌いなのでも好きなのでもない。

 自分で決められない癖に、人に決められた事に従うのは嫌だ。これでは、意志決定不能状態に陥る。この状態で、一方的に大量の情報を流し込めば、人間が壊れてしまう。だから、他人を誘導して決断するように促すのだが、結局、決断するのは自分だから、行き詰まってしまう。しかし、原因を外に求めざるを得ないから、いつまでたっても、堂々巡りで解決ができなくなる。俗に言う千日手、ループである。意志決定という出口がおかしくなると、認識という入り口もおかしくなる。
 人間は先天的に与えられ脳というハードウェアの上に価値観や思考パターンというソフトウェアを経験や学習によって書き込んでいく。この思考回路の中枢を破壊された人間は、自分を制御する事ができなくなる。意志決定は過程である。その過程に、矛盾した回路を組み込めば、結論が出なくなるのである。そして、意志決定の手順は、成長の過程で組み込まれる。現行の教育と言うより、社会環境は、人間の思考回路を破壊するように作用している。その結果が、ニートであり、引きこもりであり、集団自殺であり、結婚ができない者であり、幼児虐待、家庭内暴力、校内暴力である。価値観の根本に触れないかぎり、解決は不可能である。

 更に言えば、全ては、相対的なものだとして絶対的なものを頭から否定するのは、結果的に神の不存在を申し立てているのである。しかし、相対という概念は、存在の絶対性の上に成り立っている。存在の絶対性を前提としないかぎり、相対的認識は、成り立たないのである。

 嘘をついてはいけない。約束を守ろう。人の物をとってはならない。人を傷つけてはならない。こういった最低限のモラルさえ守れない事をなぜ、問題としないのか。そして、これら最低限のモラルを身につけるのは、育児期までさかのぼって考える必要があることに、なぜ、気がつかないのであろうか。それは、子供の置かれている環境に何らかの重大な異変があるのである。幼児期に何らかの障害があって、大人になれない人間が増えているのである。

 会議にも誤解がある。会議イコール民主主義ではない。何でも会議で決めなければ民主的ではないというのは、錯覚である。現に、大多数の民主主義国では、立法府は、議会によって決定するが、行政府は、原則、トップダウン(独裁)である。また、司法は、議決と独裁の併用である。要は、手続きである。民主的な手続きに沿っているか否かが問題なのであり、会議イコール民主主義というわけではない。

 会して議せず、議して決せずという言葉があるがこれも過ちである。会しても議さない会議、議しても決しない会議は沢山ある。これは、会議は、議論の場であり、意志決定の場だという誤解によって生まれた言葉である。報告するだけの会議、通知するだけの会議、相談する会議、連絡する会議、検討するだけの会議と会議は目的によっていろんな種類がある。会議を議論の場だけに限定してしまうと、会議はまとまらなくなる。戦後の日本人が会議の下手な原因の一つに会議は、議論する場という思いこみがある。

 学校というのは、大海に浮かぶ氷山のような物である。見えている部分も小さければ、氷山を浮かべている大海もある。見えている氷山の一角ばかりを問題にしても本質は見えてこない。教育問題というと、学校だけの問題に限定してしまう傾向がある。しかし、大部分の問題が、学校だけでは片づかないのである。
 学級崩壊の背景には、家庭崩壊、育児崩壊、地域社会の崩壊、文化の崩壊、環境崩壊、職場崩壊、財政崩壊、経済破綻といった崩壊の連鎖がある。これらを総合的に見ないと真の解決はできないのである。

 教育は、環境である。学校や家庭だけで教育ができるわけではない。教育の現場を囲む環境が重要なのである。ライオンやオオカミが徘徊するような原野に裸で子供を抛り出せば、子供を守ることはできない。子供を守るどころか、自分の身すら守れない。しかし、教育を囲む環境は野放しであり、劣悪な状況である。その劣悪な環境を作っている張本人が環境を管理しているのであるから、環境を良くできるはずがない。

 暴力を学校や家庭では否定しても、テレビやメディアには暴力が氾濫している。暴力を振るった子供は、暴力を学校や家庭で否定されても、テレビでは肯定される。学校や家庭で教えられる価値観を受け容れなくなる。いけませんといわれれば納得したことを、子供達にとってより以上の権威によって肯定されてしまうのである。また、自分の犯した過ちを帳消しにしてくれれて、それが、より強い力を持っていれば、子供達は、そちらに従う。北野たけしがいくら俺は、一コメディアンといっても、既にメディアの中では権威になっており、メディアで権威である以上、子供達にとっては親や学校以上の権威なのである。その人間が暴力肯定すれば、学校や家庭での教育を帳消しにする力は充分にある。それは、芸術のレベルを遙かに超えた社会的責任なのである。

 学校や親が間違ているとする行為を正当化すると同時に、学校や親の権威を否定するという二重の効果がある。更に、この効果が高じると学校や家庭からの価値観を排除する働きを持ち始める。つまり、教えれば教えるほど反発を招く結果になる。こうなると、規制の教育機関や家庭の教育・躾は、逆効果になる。こうなると学校の言う事も親の言う事も受け付けなくなる。これを解決することは、学校だけでも、家庭だけでも不可能なのである。
 しかも、質が悪いことにこの様な価値観を刷り込んでいる者も刷り込まれている者も明確な自覚がなく、現象だけが現れることである。
 送り手は、深い意図があってやっているわけではない。また、受け手も深刻に受け取っているわけではない。しかし、だからこそ深刻な結果や事態を引き起こすのである。

 否定や破壊の連鎖を引き起こしていることに気がついていないことである。つまり、国家を否定する事が、世間や社会の権威や体制の否定に繋がり、それが、先生や親の権威の否定に繋がり、親の否定が、自己の否定につながるという風に連鎖的な否定がはじまり、究極的には、自己否定につながるという図式である。

 二重三重の否定、複雑にひねくれた否定である。それは、起点、自分の依って立つ場所を否定する事からはじまる。核のない思想、芯のない思想ができあがってしまったのである。
 愛国心から現体制を批判したり、時に、否定する事は、自分の思想の核を否定する事にはならない。しかし、最初から愛国心を持たず、ただ、体制は悪だ、国家は悪だと反体制を目的としてしまえば、必然的に反対のための反対という空疎なものになってしまう。そこから、否定の連鎖ははじまる。
 反国家主義者、無神論者、反体制主義者が陥る罠がそこに潜んでいる。絶対な者は、絶対にないという論法である。排中律、排反的な論理である。弁証法の罠でもある。
 メディアは、一方で反暴力、反戦をいいながら、もう一方で暴力的で戦闘的な漫画や情報を無制限に垂れ流す。自分で否定しながら、自分で肯定する。自分で肯定しながら、自分で否定する。こう言うことを繰り返すのである。こう言うことを繰り返されれば、受け手は何も信じられなくなる。そして、行き着くところが自己喪失、自己否定である。その典型が、集団自殺、ニート、引き籠もり、幼児虐待、結婚できない者、家庭内暴力、校内暴力である。
 集団自殺は、自殺すら自分一人でできなくなっていることを意味する。自己喪失である。

 タバコを吸っている現場を押さえて注意しているのに、タバコを吸っていたこと自体を認めようとしない。(「おれ様化する子どもたち」諏訪哲二著 中公新書ラクレ)目の前でやっている行為を認めようとしない。もし真顔で、やっているとしたら、認知行動に問題がある。本当に認知していない可能性がある。認知していないことは、存在しない。たとえ自分の行為でも自分が認知しなければ存在していないのである。つまり、自分が認めないかぎりやっていないのである。
 通常は、この様な行為・言動を嘘だと認知する。しかし、これを嘘という認識が不思議と注意する側にも注意する側にも認められない。そして、現場の教師がも自分のそれまでの通念が通用しなくなった嘆いているだけなのである。嘘をついているという認識が欠如している。教育者から見ると頑なに認めないのである。明らかに教育者にも問題がある。嘘をついてはいけないと言う共通認識が成り立っていないのである。
 根本的に、嘘はいけないと言う道徳的な問題が見逃されているばかりか、嘘だという認識もないのである。ただ、自分のやった事を認めないと思っている。認めないではなく、認めていないのである。ここに深刻さが隠されている。
 これを正すためには、事実を事実として認知することから教えなければならない。その上で、嘘をついてはいけないと言う規範を事前に刷り込んでおく必要がある。さらに、未成年者がタバコを吸うことは、違法行為なのだと言う事を認識させなければならない。その上で、更に、法を守らなければならないという事も事前に刷り込んでおく必要がある。
 考えてもみればいい。嘆いている教師自体が自分は、反逆したと言っているのである。その時、自分達は何を言ったのか。自分達は、何をしたのか。反社会的、反体制的、反倫理的な行為をとったのである。それが子供達や後輩に影響がなかったと考えるほうがおかしい。しかも、男女平等論者の中には、男女の肉体的な差、生理的な差まで否定している者が今でもいる。
 歴然とした事実を認めないと言うのは、男と女の差を認めないのも同根なのである。祖利点を自分達が認めないかぎり、正しい原因を明らかにすることはできない。遵法精神にかけている人間が、違法行為だと他人を責めることはできないのである。そこに自分がない。

 男女差の肉体的な差を認めず、スポーツからも男女差をなくそうというのは、暴論である。男と女に肉体的な差があるからどうだというのだ。その事と差別とは違う。差別というのは意識が生み出すものだ。体力的、生理的差が存在することが直ちに差別に結びつくのではない。体力的な差や肉体的な差に応じてスポーツを楽しむのは、差別とは違う。それは、シニアやジュニアをなくせというのに等しい。根本的なのは、事実を事実として認識することすらできなくなってしまったら、その後は、全てが虚構だと言う事である。この様な虚構の上には、いかなる教育も成り立たないのである。

 多数決信仰の危険性もある。多数決で全てを片付けようとするのは、民主主義と結びつけられて語られるケースが多い。その一方で、少数意見の尊重も言われる。つまり、多数決によって何でも決めるのが、民主主義だという幻想。そして、多数決で決める事は、客観的なものであって間違いがない。多数決で決めた事は正しい。多数決は、正しい。本当に、多数決で決める事は間違いがないであろうか。正しいだろうか。ならば、試験など全て多数決でやればいい。多数決と言うのは、意志決定上の一手続き、手段に過ぎない。それを絶対的な手段として位置付けたら、民主主義は、硬直的なものになる。だからこそ、民主主義では、多数決は、立法的手続きに限定しているのである。多数決原理を行政に持ち込めば、国家は機能不全におちいる。総理や大統領の独断が間違いだとしたら、行政は動けない。総理も大統領も何事にも責任が持てなくなる。独断の全て悪いのではない。ただ、その後の手続きが重要なのである。手続きによって、間違った決断を抑止するからである。
 多数決というのは、約束事、決め事の一つに過ぎないのであり、根本は、契約であり、手続きであり、約束なのである。特に、約束である。結局根本は、個人の倫理である。このことも学校は、きちんと整理して子供達に教える必要がある。つまり、民主主義的に決めるためには、どのような手続きが必要なのかである。

 多数決をしろという一方で、少数意見を尊重しろと言われれば、何も決められなくなる。少数意見の尊重とは、少数意見に従うことを意味するのではない。また、全員一致でなければ決められないと言うのではない。基本的には、少数意見も決められたルールに従って尊重すべきなのである。そのルールも予め決められたルールでなければならない。つまり、民主主義というのは、多数決原理ではなく、予め決めたルールに従って物事を判断することなのである。そのルールの決め方が民主主義的な手続きに沿っているか否かの問題なのである。

 単純に、多数決は正しいとしたら、数の論理にすり替わる危険性がある。視聴率が高ければ何をやってもいい。映画がヒットしている、売上や観客動員数が多いから、その映画のコンセプトは承認された。選挙も人気投票のような色彩を帯びる。人気があれば何でも許される。金さえあれば何でもかえる。株で多数で制すれば何をしてもいい。それがルールでしょ。正義なんてどうでもいい事。結局、そう言う論理を社会や子供に植え付けていく。それを植え付けているのがテレビ局である。楽しくなければいい番組ではない。楽しければ何をしてもいい。俗悪番組の世評などどこ往く風。逆に、一部の視聴者の言動に過敏に反応して言葉狩りをする。多数決は正しい。少数意見も尊重しなければ、しかし、その根本に、テレビ局の基本姿勢、考えがかけている。というよりも、自分の立場考えを明らかにすることは、公共性を重視する放送局は許されないと言う論法で応える。しかし、突き詰めると、自分の立場を曖昧にして、多数に迎合している方が、自分達に都合がいいだけなのである。
 儒教で嫌われる者に、郷原というのがある。つまり、周囲の人間に迎合していて一見善人に見えるが、自分のない人間は、最も徳のない人間だと言う事である。現行の教育の目的は、この郷原を育てることのように思える。

 個性の尊重。個性というのを、人と違うことやったり、目立つことのように教える。しかし、個性というのは相違点というのは、違う。個性というのは、その人が持って生まれ特徴を言うのであり、本性のである。確かに、平均的なことと比べると変わっていると言うより、全てが平均という人間がいたらそれこそ普通ではないのであるから、変わっているところがあるのが当然である。個性というのは、素の自分を出せばいいので、ことさら、人と変わったことをするのは、かえって個性を潰してしまう。

 そして、最後は、何でもかんでも謝罪せよである。見ていると、誰に向かって頭を下げているのか。下げさせられているのか。テレビやマスコミに向かって頭を下げているようにしか見えないケースが増えている。会社のトップや社会的な地位のある物に頭を下げさせる。日本人は、一度謝ってしまえば片が付くと言った安易な考えがあるのではないか。しかし、一度謝れば、問題が起こるたびに謝り続けなければならなくなる。何で謝るのか。それも何の関係もない人間にまで向かって頭を下げる必要があるのか。結局それも外聞を嫌ってなのである。ここにも、主体性のなさが、端なくも露呈する。結果、謝罪外交がはじまる。謝って、謝って、結局、手も足も出なくなる。誇りは何処へ往ったのか。

 この様な状況を引き起こしたのは、団塊の世代が種を蒔いた部分があるのは否定できない。又は、建国時代に蒔かれた種に、団塊の世代が、我々の世代が肥やしをやったといえないこともない。それを自覚しないで、今の状況だけを問題にしても問題は解決されない。先ず隗より始めよである。

 反体制、反逆に憧れ、破壊活動に終始してきた。しかし、創造的な仕事が欠落していたのである。そして、三無主義・六無主義、究極は、九無主義と言う者まで生み出してしまった。それが今日の状況を生みだしている紛れもない事実である。
 反対のための反対。ただ意味もなく反対する。体制が決める事は、悪い事しかないのだからと反対する。こうなると、反対するのは、条件反射みたいなものである。旧社会党も、あれほど違憲といっていた自衛隊を、自分が政権を執るといとも簡単に認めてしまった。これでは、健全な野党など望むべきもない。
 天に唾すれば、自分にかかる。自分達の行ってきた悪行の報いが、自分達に降りかかってきているだけである。それを正そうとするならば、自分達の過去を清算し、先ず自分達の襟を正すことが先決なのである。

 現行の学校教育は、プロの育成を目指しているわけではない。スポーツを考えれば判る。体育の専門学校は、プロのスポーツ選手を育成しているわけではない。むしろ、アマチュアリズムの総本山である。
 これは全ての分野に言える。学校というのは、プロ(職業人)を育成する場ではない。だからこそ、大学進学者が増えれば、フリーターやニートと呼ばれる若者が増えるのである。職業人としてのプロを否定してしまえば、経済的な社会に適合しなくなる。経済的に自立することができなくなる。それは、経済的に自立した社会人を育てるという目的からみると逆行している。
 学校が、プロの養成所でなくなったのは、学校が最初からプロの養成を放棄したからである。学校は、勉強だけを教えればいいと自らを限定的にしたところから、学校の崩壊は、はじまったのである。学校本来の役割は、自立した人格の育成にあったはずである。その原点に帰らないかぎり、教育は、真の姿を取り戻すことはできないのである。

 目的は、観念ではない。現実である。特に、教育ではこの傾向が高い。ところが、多くの教育者は、教育の目的を観念的で、汎用的で、一般的なものにしてしまっている。その為に、教育そのものが鵺(ぬえ)のように得体の知れないものになってしまった。

 仏教において蓮の花が愛でられるのは、蓮が泥のように汚れた中でも、泥に汚されずに美しい花を咲かせるからである。他に迎合することなく、凛とした自分を持てるように教育することこそ教育本来の目的であるはずである。それが、自己の主体性を破壊し、他者の言うなりにしかならないような、又は、他者に依存してしか生きていけないようなそんな人間しか育てられないとしたら、それは、教育の明らかな敗北である。核となるべきものは、何か。それは、愛である。自己にしっかりと根ざした愛である。自己の内面の世界にしっかりと根を張った時、人は、いかに汚れた世にあっても穢れなき愛の花を咲かせることができるのである。




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